ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.5.6


. 春と修羅・初版本

42いま鳥は二羽、かゞやいて白くひるがへり
43 むかふの湿地、青い芦のなかに降りる
44 降りやうとしてまたのぼる

このように、「二疋の大きな白い鳥」は、ずっと2羽で行動しているのです、つまり、作者は何かの意図かモチーフがあって、そのように描いているわけです。それが何を意味するのか、よく分かりません。菅原氏の説明でも、十分に解明されたとはいえないように思います☆

☆(注) この鳥たち(ムクドリ)の動きを見ていると、保阪よりも、むしろ『鳥をとるやなぎ』が想起されます。つまり、賢治が中学2年時に死別した藤原健次郎が想起されるのです。

45 (日本武尊の新らしい御陵の前に
46  おきさきたちがうちふして嘆き
47  そこからたまたま千鳥が飛べば
48  それを尊のみたまとおもひ
49  芦に足をも傷つけながら
50海べをしたつて行かれたのだ)

ヤマトタケル伝説ですが、『古事記』の該当箇所を引用しておきましょう:

「ここに倭[やまと]に坐[いま]す后等また御子等、諸下り到りて、御陵[みささぎ]を作り、すなはち其地のなづき田に匍匐[は]ひ廻[もとほ]りて、哭[な]きまして歌ひたまひしく、

  なづきの田の 稲幹[いながら]に 稲幹に 匍ひ廻ろふ 野老蔓[ところづら]

 とうたひたまひき。ここに八尋白智鳥に化[な]りて、天に翔りて浜に向きて飛び行でましき。ここにその后また御子等、その小竹[しの]の苅杙[かりくひ]に、足■り破れども、その痛きを忘れて哭きて追ひたまひき。〔…〕また飛びてその礒[いそ]に居たまひし時に、歌ひたまひしく、

  浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ

 とうたひたまひき。〔…〕故、その国より飛び翔り行きて、河内国の志幾に留まりましき。故、その地に御陵を作りて鎮まり坐さしめき。すなはちその御陵を号[なづ]けて、白鳥[しらとり]の御陵と謂ふ。然るにまた其地より更に天に翔りて飛び行でましき。」

(倉野憲司・校注『古事記』,「倭建命の薨去」,1963,岩波文庫,pp.144-145.)
 ■=「足へん」に「非」

※ここ:ヤマトタケルは、東征からの帰途、三重県鈴鹿郡で死亡した。
※倭:大和地方
※野老蔓:ヤマイモのつる
※八尋白智鳥:大きなハクチョウ
※小竹の苅杙:篠竹の切り株。篠竹(しのだけ)は、笹や細い竹の総称。

〔【大意】故郷のヤマトから后たち、子供たちがやってきて、ヤマトタケルの陵墓を造り、泥田で這い回って泣き悲しんだ。すると、ヤマトタケルの霊がハクチョウになって、海岸へ飛んで行ったので、后たち、子供たちは、篠竹(芦)の切り株で足を傷つけながら追いかけて行った。

 そのハクチョウが海岸に居た時に、后たち、子供たちは、

  浜の千鳥 (人が歩きやすい)浜を飛んで行かずに (人が歩きにくい)磯伝いに飛んで行く

 と歌った。

 ハクチョウは、そこから飛んで行って、河内の国のシキに留まったので、その地にも陵墓を造り、「しらとりのみささぎ」と名づけた。ところが、ハクチョウは、そこからもさらに遠くへ飛んで行ってしまった。〕

賢治が、ハクチョウでなく「千鳥」にしているのは、「浜つ千鳥 ‥」の歌から、チドリだと解釈したのかもしれません。

49  芦に足をも傷つけながら

は、『古事記』の

「ここにその后また御子等、その小竹[しの]の苅杙に、足■り破れども、その痛きを忘れて哭きて追ひたまひき。」

という部分に対応しています。
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