ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.1.6


. 春と修羅・初版本

14蒼鉛いろの暗い雲から
15みぞれはびちよびちよ沈んでくる
16ああとし子
17死ぬといふいまごろになつて
18わたくしをいつしやうあかるくするために
19こんなさつぱりした雪のひとわんを
20おまへはわたくしにたのんだのだ
21ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
22わたくしもまつすぐにすすんでいくから
23 (あめゆじゆとてちてけんじや)
24はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
25おまへはわたくしにたのんだのだ
26銀河や太陽、氣圏などとよばれたせかいの
27そらからおちた雪のさいごのひとわんを……

 


思うに、Aの16行目以下は、次のBと、時間の前後関係が逆転しているのだと思います。

「こんなさつぱりした雪のひとわん」と言えるのは、じっさいに椀に雪を採取したあとでなければなりません。なぜなら、採取する前は、ぐちゃぐちゃしたみぞれが空から落ちてくる光景しか、「わたくし」には見えていないからです。

「わたくし」は、Bの採取作業によって初めて、陰惨な空から落ちてきたみぞれであっても、水の部分が流れてしまったあとに残っている雪は、真っ白で美しいのだ──ということを発見するのです:

47あんなおそろしいみだれたそらから
48このうつくしい雪がきたのだ

椀に採取した雪の美しさ・明るさ → 今、みぞれを落としている陰惨な空は、「銀河や太陽、氣圏などとよばれた」美しい世界でもあることを認識する → 妹の依頼は、自分にそのことを知らせ、自分を「一生明るくするため」だったと感じる → 臨終の苦しみの中で、陰惨に見える天も「じつは明るく楽しいのだ」ということを知らせようとしている妹の「けなげ」さを思い☆ → 「ありがたう〔…〕わたくしもまつすぐにすすんでいくから」と誓う。

↑このような筋道になっているのだと思います。

☆(注) 26-27行目:「銀河や太陽、氣圏などとよばれたせかいの/そらからおちた雪のさいごのひとわんを……」とありますが、「さいごのひとわん」とは、どういう意味でしょうか? トシにとっての最後の一椀‥という意味に取らざるをえません。「よばれた世界」という過去形も、死んでゆくトシから見れば、この世界は過去のものとなってしまうからではないでしょうか?つまり、死後のトシは、「銀河や太陽、氣圏」、あるいは、この世界から見える「そら」や“天”には別れを告げて、別の世界へ行ってしまうことが暗示されています。じつは、トシの向かって行った“死後の世界”と、われわれの(そして賢治の)目に見える世界との関係については、翌年の「青森挽歌」でも、動揺を繰り返しています。したがって、《異界》──しばしば《心象》として賢治の眼に見えていた世界──と“死後界”の関係について、賢治は確固たる考えを持ちえなかったと思われるのです。しかし、さしあたって、「永訣の朝」では、“死後界”は、“見える世界”とは──したがって《異界》とも──まったく別の世界と考えられているようです。死んで空に上がるとか、星になるとかではなく、死者は、この世界とは全く次元の違う存在になってしまって、もはやこの世界を認識できなくなるし、この世界からも、移って行った死者を認識することはできない。そうであればこそ、「銀河や太陽、氣圏などとよばれたせかい」のすべてに、そして、みぞれや雪に、別れを告げようとしているトシは、まことに「けなげな妹」だと、賢治には思われたのです。
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