ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.4.12


ともかく、「これらふたいろの観測器械による/これらふたつの感じやう」とは、前述した自我意識の分裂を指しています。荘重なオーケストラが響く「鋼青壮麗」の世界にも思われるし、他方、木星の拡大画像のような茫漠とした巨大惑星、有毒ガスの嵐が吹き荒れる死の世界とも見えるわけです。

「これらふたつの感じやうは/じつはどっちもそのとほりだ」と言っているのは、《異界》として認識された神秘で壮麗な宇宙も、虚無そのものの科学的宇宙像☆も、どちらも誤りない宇宙の姿なのだ、というわけです。

☆(注) ここでちょっと思い出しておきたいのは、第2章の「真空溶媒」で、牧師のステッキや上着やチョッキが、つぎつぎに“真空溶媒”(宇宙空間の真空のこと)に溶かされて消えてしまったが、気の持ちようによっては、それらは消えていなかった、というくだりです。ここで“真空溶媒”とは、科学によって認識された宇宙、あるいは科学的認識そのものを意味しているのではないでしょうか。科学的素養のない赤鼻紳士には、科学的認識の力は働きようがないのです。

そして、「じぶんでじぶんを測定する/現象のなかの命題」とは、まさに作者がいま行なっている《心象スケッチ》(自分を測定すること)によって得られた《心象》ということでしょう。それは、科学的な世界像の場合もあり、“幻視”された《異界》の場合もあるが、「どっちもそのとほりだ」──ありのままの世界なのだ、と言うのです。

ここには、統一された一個の自我のもとに、科学的・現実的認識と、《異界》の《見(ヴュ)》とを、両立させようと努めている賢治の意欲が感じられます。

. 春と修羅・初版本

49とし子 わたくしは高く呼んでみやうか
50《手凍(かげ)えだ》
51《手凍えだ?
52 俊夫ゆぐ凍えるな
53 こないだもボダンおれさ掛げらせだぢやい》
54俊夫といふのはどつちだらう 川村だらうか
55あの青ざめた喜劇の天才「植物醫師」の一役者
56わたくしははね起きなければならない

49行までは、作者は“幻視”の世界に浸っていて、声を出してトシに呼びかけようとさえしています。

しかし、50行目で、作者は、まわりに生徒たちがいることを思い出し、現実の世界に引き戻されます。というのは、生徒の一人が‘こごえている’という会話が聞こえたからです。50-53行は生徒どうしの会話でしょう。

寒いので、みな、持ってきた服を重ね着しているのですが、指が凍えてボタンが掛けられない生徒がいるのです。
もう休憩はやめて、歩き出さなければなりません。まもなく柳沢に着きますから、そこの宿屋に入って温まればよいでしょう。

引率している賢治は、もう「はね起きなければならない」。

河村俊雄(「川村俊夫」は賢治の誤字)も、小田島、佐藤と同級ですが、「喜劇の天才」は事実でした。そもそも、河村は、友達の受験の付き添いで来ていたのを、賢治が気に入って受験させ、その後は村長を動かし、両親を説得させて入学させた経緯があります。賢治はよほど河村が気に入っていたらしく、「植物医師」という戯曲は、河村の役柄に合わせて書いたと言われるほどです。

ただ、人物像にはややフィクションがあります。じっさいの河村は、カボチャとあだ名がついたくらいずんぐりした、見るからに丸っこい少年で、それが喜劇に合っていたそうです☆

☆(注) 佐藤成『証言 宮澤賢治先生』,1992,農文協,pp.66-73,188-189.

ところが、賢治は、「青ざめた‥天才」、繊細な少年──彼が凍えているというので、心配して跳ね起きた──として河村を描いています。賢治が彼に持っていたイメージは、そうだったのかもしれません。

ところで、【印刷用原稿】の最初の形では、“幻視”から現実に戻る 49行目〜50行目の間に、次の2行が書かれていました:

「けれどもなにもかもみんな透明だ
 いいといったらなにもかもみんないいのだ」

最初の行は、“幻視”された《心象》風景はみな現実感が無いと言っています。
それに対して、2行目は、それでも「なにもかもみんないいのだ」──現実感が無くとも、「そのとほりのけしき」として価値があると言うのです。
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