ゆらぐ蜉蝣文字
□第6章 無声慟哭
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6.4.5
. 春と修羅・初版本
16《ああおらはあど死んでもい》
17《おらも死んでもい》
18 (それはしよんぼりたつてゐる宮澤か
19 さうでなければ小田島國友
20 向ふの柏木立のうしろの闇が
21 きらきらつといま顫えたのは
22 Egmont Overture にちがひない
後のほうの詩の展開を考えると、作者は、その‘死んでもいい’という言葉によって、亡ったトシ子の追憶へ引き戻されている──という解釈もできるのかもしれません。しかし、それではあんまり短絡的すぎないか…、とギトンは思います。むしろ、すぐそばに「Egmont Overture」(ベートーヴェン作曲「歌劇エグモント・序曲」)という手がかりがあるのですから、まずそちらから検討すべきでしょう:画像,音声リンク:エグモント序曲
“エグモント序曲(Egmont Overture)”は、ゲーテが青年時代に書いた詩劇“エグモント”に、ベートーヴェンが序曲といくつかの場面音楽を付けたもので、こういうのを“劇付随音楽”というそうです。
オペラ(歌劇)は、すべてのセリフに音符がついています(そーなんです!!)けれども、…完全なオペラではなくて、ふつうのセリフの劇に、音楽と歌が挿入されているのが、“劇付随音楽”です。
主人公のエグモント伯は、オランダの貴族──といっても当時はまだ神聖ローマ帝国の一部でしたからオランダという国はまだありません。代々北オランダ州の知事を受け継ぐ家柄でした。1556年に神聖ローマ皇帝カール5世が退位すると、息子のフェリペ2世がスペインとネーデルラント(今のオランダ、ベルギー、北フランスの一部)を継承するのですが、このころドイツで始まった宗教改革(ルターが『95ヶ条』を発表したのは1517年ですから)に対してスペイン王フェリペ2世は徹底弾圧で臨み、エグモント伯はオラニエ公(のちのオランダ王家)などとも協力して抵抗し、1567年にはフェリペ2世の命で着任した新任総督のアルバ公に逮捕され、翌年ブリュッセルで処刑されてしまうんです。
そういうわけで、エグモント伯は、圧制に抵抗してオランダの独立に功のあった人物として、後世には評価されているんですね。ゲーテの戯曲『エグモント』も、極端に史実をデフォルメしてw…エグモントを、専制支配からの自由を求めて戦う民衆の代表のように描いていまして、
ベートーヴェンも──もともと革命派ですから──‘抵抗の英雄’としてのエグモントを絶賛して作曲したのが、この“エグモント序曲”なんです。
でも、じっさいには歴史上のエグモント伯は新教徒ではないし、もともと神聖ローマ皇帝にもフェリペ2世にも忠誠を尽くしていまして、フェリペ2世がイギリスのメアリ女王(“血のメアリ”ですねwイギリスは、この時だけ一時的にカトリックに復帰するんです)と結婚する仲介の労をとったりしているんです。エグモントがフランドルとアルトアの知事に任命されて“伯”と呼ばれるようになったのも、西仏戦争の際にスペイン側でフランスと戦って戦功があったからでした。そういうエグモント伯は、しかし、徹底弾圧で臨むスペインに対して、新教徒への寛容を主張して睨まれてしまったらしいんです☆。しかも、スペインの強硬姿勢を見て、オラニエ公などは、一時的に身を隠して独立戦争の準備を始めるんですが…、エグモント伯は、オラニエ公の説得にも耳を貸さずに、自分はあくまでスペインに忠誠を誓っていると言って、着任してきたアルバ公を恭しく出迎えて逮捕され、‘大逆罪’で処刑されてしまうんです。たぶん、見せしめにされたんでしょう…まぁ、そういう人なんでしょうね。正直がアダになったところがあって、そういうのが後世にはかえって、高潔だってことで、“民衆の英雄”に祭りあげられてしまうんでしょう。
☆(注) ドイツ語版ウィキペディアには、エグモント伯もフランドルで新教徒を‘残忍に迫害した’と書いてありましたが、史実として確認できませんでした。
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