ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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【61】 風 林





6.4.1


「風林」は、1923年6月3日付け、次の「白い鳥」は、1923年6月4日付けですが、
前作「無声慟哭」(1922年11月27日付)との間には、半年以上のブランクがあります。

そこで、作者は、前年11月の“妹の死”以来、“ショックのあまり詩が書けなくなっていた”と見る人が多いようです。たしかに、11月の“三部作”では、臨終の時点について描いているだけで、“死”そのものは訪れることがなく、23年6月の2篇では、いきなり飛んで、“死”から相当たったあとの作者の回顧が書かれているだけです。
トシの“死”そのものが主題となるには、23年8月の「青森挽歌」まで待たなければなりません。それほど、作者にとって“妹の死”による衝撃が大きかったのはまちがえないでしょう。

しかし、他方で、『春と修羅』《初版本》に収録されている作品が、この期間に賢治が書いた《心象スケッチ》のすべてでないことは明らかです。大部分でさえないと思われます。のちの『春と修羅・第2集』以後は、“作品番号”を付けるようになるので、どのくらいの数の習作が書かれて破棄されたのかが分かるのですが、そこでの詩作の“頻度”から推測すれば、《初版本》収録作品は、賢治が同時期に書いたもののごく一部にすぎないと考えなければなりません。書いたけれども破棄されて残っていないものが、大部分と思われるのです。
したがって、「無声慟哭」と「風林」のあいだにも、習作は相当数書かれたけれども、発表できるほどのものは無いと判断して、処分したのではないか──そうも考えられるのです。

↑これらのどちらが事実だったのかは、もはや確かめるすべはないのですから、議論してもしかたないかもしれません。

ただ、詩作以外の活動については、かなり分かっています。賢治は、この“ブランク”の期間も、ひきこもっていたわけではなく、学校勤務だけをしていたわけでもなく、芸術関係の活動を、かなり活発にやっているのです。

23年1月4日〜11日には上京し、静岡県三保の『国柱会大霊廟』へ行って、トシの合祀と戒名授与を受けていますが(9日)、その途上、東京の弟・清六の下宿にも寄っています。
その際、大型トランクいっぱいの童話原稿を花巻から持参して、『婦人画報』を出版していた東京堂へ清六に持って行かせ、掲載を断られ、そのまままた花巻へ持ち帰っています。清六と、『国柱会』の宗教劇のほか、映画を見ていますが、清六氏の回想によると、兄は合流した時に、その日映画館は「4館目」だと言っていたそうです☆

☆(注) 宮沢清六「映画についての断章」,p.49,in:同『兄のトランク』,1991,ちくま文庫,pp.39-51; 同書,pp.90-91,255-256。

この時の東京行きで、賢治が、映画館と三保と清六の下宿以外にどこへ行っていたかは謎なのですが、ジャズ体験の関係から、ギトンは、この時に賢治は、横浜港・本牧波止場のペントハウス(「チャブ屋」:外国船員用の酒場兼売春宿)に足を運んでいたのではないかと憶測しています←宮沢賢治とジャズ

23年4月に、勤務先の稗貫農学校が、町の郊外に新校舎を建てて移転し、同時に県立に昇格して「花巻農学校」と改名し、5月25日に開校式を催しました。賢治は、自作のオペレッタ「植物医師」「飢餓陣営(バナナン大将)」を、生徒を配役にして開校式の余興に上演、町民が集まって観覧しました。




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