ゆらぐ蜉蝣文字
□第6章 無声慟哭
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6.3.9
「精進のみち」という言葉から想起されるのは、菅原氏も指摘するように(op.cit.,pp.178-179.)、「小岩井農場・パート9」の終結部で:
. 春と修羅・初版本
61もしも正しいねがひに燃えて
62じぶんとひとと萬象といつしよに
63至上福しにいたらうとする
64それをある宗教情操とするならば
65そのねがひから砕けまたは疲れ
66じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
67完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
68この變態を戀愛といふ
と述べている部分です。
これは、【印刷用原稿】作成の際に書き加えられた部分で、その時期は、トシの死去よりも後になります。☆
☆(注) 加えて言えば、この思想は、宮澤トシが遺した手記『自省録』に影響されている可能性があります。この文書は現在分析中ですが、後日詳しくご紹介したいと思っています。
↑この「正しいねがひ〔…〕そのねがひから砕けまたは疲れ」は、「無声慟哭」の
「精進のみちからかなしくつかれてゐて」
に、ぴったりと対応しています。
すなわち、「精進のみち」を行くのに疲れ、脱落した作者が陥っている「毒草や螢光菌のくらい野原」とは、愛憎と性愛美に満ちた世界であり、また、愛憎の闘争に満ちた「青ぐらい修羅」でもあるのです。
「修羅を歩いてゐる」は、単に信仰に疑いを抱いているというだけではなく、恋愛をはじめとする愛憎と闘争心でいっぱいになった心で毎日を生きているという、作者の自意識なのだと思います。
さて、このように理解すれば、「無声慟哭」の後半で、作者が、トシと母の会話を、ただ眺めているだけで、妹を励ますような言葉ひとつ口に出せないでいる理由も、明らかになります:
24《それでもからだくさえがべ?》
25 《うんにや いつかう》
26ほんたうにそんなことはない
27かへつてここはなつののはらの
28ちいさな白い花の匂でいつぱいだから
29ただわたくしはそれをいま言へないのだ
30 (わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)
つまり、賢治が信仰に疑念を抱いていることは、「今、一心に信じ切って死んでいこうとする妹への裏切りであった」から、信仰の動揺を押し隠して、きれいごとを言うことは、もうできないのです。
「わたくしはそれをいま言へないのだ」
とは、そういう意味にちがいありません。
以上、栗谷川虹氏と、菅原智恵子氏による解釈を、それぞれ見てきましたが、両氏の理解は、必ずしも矛盾するものではないと思います。信仰に対する疑念に捉えられ、あるいは、信仰に背を向けて、薄暗い《心象》世界をさまよっている「わたくし」には、トシの死後について確信が無いために、力強く送り出してやることができない──という作者の“葛藤”の理解に関しては、一致しています。
両氏の解釈は、真実の二つの側面を言い当てているのだと思います。
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