ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.2.8


これに対して、「松の針」のほうは、ふんいきの明るさから、新しい恋人に抱いた恋愛感情の現れとする論者が多いようです☆。たしかに、「恋と病熱」などと比べれば、その人のことを楽しく「考えながら森を歩」くような対象は、別の人とも考えられなくはありません。

☆(注) たとえば、小沢俊郎「アルビヨンの夢と修羅の渚」補注1,in:『賢治地理』,pp.24-25; 『小沢俊郎 宮沢賢治論集・3・文語詩研究・地理研究』,p.136. また、澤田たまみ『宮澤賢治 愛のうた』,2010,盛岡出版コミュニティー(もりおか文庫).は、“恋人”として特定の女性の名を挙げています。

ギトンとしては、いまのところどちらとも断定できませんが(なお、小沢氏は、“異性の恋人”とは言っていません)、菅原氏の引用する「無声慟哭」の詩句:

「わたくしが〔…〕毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき」

を見ても、必ずしも“明るい恋”とは言えないように思います★

★(注) 「ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた」に該当する内容の詩を『春と修羅』の1922年10月までの中から探してみますと、第1章の「習作」、第4章の「竹と楢」などです。「習作」は、明らかに、保阪嘉内「のことをかんがへながら」歩いているスケッチですし、「竹と楢」は、煩悶に満ちた彷徨です。やはり、ギトンは、「無声慟哭」の「ほかのひと」も保阪を指すという菅原説に傾くのです。

それでは、「松の針」を先に進めたいと思います:

. 春と修羅・初版本

19ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
20ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
21わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
22泣いてわたくしにさう言つてくれ

「わたくし」は、「永訣の朝」で、トシの

39(Ora Orade Shitori egumo)

という“霊界からの”訣別の言葉を正面から受け止め、それを、生ける妹への執着と鬱屈を乗り越えて進んで行く明るさに、結び付けようとしていたのですが、

ここでは再び、「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ」という執着に回帰しています。

“死んでゆく者とともに生死の境を越えることはできない”“人はそれぞれ《他者》である”という冷厳な現実を、いったんは受け入れたように見えても、ここでまたもとに戻っているのです。

3-9行で、悶えるようにして松の枝に飛びつく生身の妹を描いた(フィクションであっても、それはトシの本質の一面です)のに対応して、ここでは、「わたくし」も生身の姿をさらけ出していると言えます。

なぜなら、死後の妹が移って行った世界と、《見者(ヴォワイヤン)》として賢治が目睹する《異界》との関係は、はっきりしないままだからです。また、《他者》との直面という課題も未解決のままです。
そして、作者は、すくなくとも、第7章「オホーツク挽歌」の終りまで、このことに悩み続けるのです◇

◇(注) 宮沢賢治は、1924年に『春と修羅・第2集』に属するいくつかのスケッチで習作した後、24年12月には、『銀河鉄道の夜』の最初の草稿を書き上げ、友人たちの前で朗読しています。ジョバンニとカムパネルラは、この最初の草稿から登場しています。カムパネルラのモデルについては、トシなのか、保阪なのかをめぐって、天沢退二郎氏と菅原智恵子氏らとの間で論争がありましたが、モデルが誰かということとは別に、この童話全体の構想は、やはりトシの死去と、そこで直面した2つの課題──死後の世界、及び《他者性》──を追究する中で生まれたものだと思います。(カムパネルラのモデルについては、藤原健次郎説(松本隆氏)などもあります。ギトンは、そもそもモデルをひとりに絞ろうとするのが無理な企てだと考えますが、いずれにせよ男性の少年であり、トシは含まれないと思っています。)
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