ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.2.6


トシは、周囲の人に気兼ねして、自分の要求をあまり表に出さない人だったようなのです。
病臥してからも、トシ自身があまり言わないので、家族もトシの病状が重篤になるのを見過ごして、主治医にも十分な連絡をとらなかったように思われるのです☆

☆(注) ギトンは、医学は全く分かりませんが、当時の資料を見ていると、肺結核という病気は、抗生物質のない当時は“不治の病”だっただけでなく、診断も難しかったように思われます。トシの場合も、賢治の場合も、亡くなるまで正確な病名診断がないようなのです。ですから、自宅療養の場合、家族が疾病の進行を見過ごして重篤な事態に立ち至ってしまうのは、決して宮澤家に限ったことではなく、当時は一般に見られたことではなかったかと想像するのですが‥

それに加えて、浄土真宗の一家の中で、賢治とトシだけが日蓮宗という事情があり、死去後の葬儀等のあいだ、ゴタゴタが続きました。これも、いっさいが済んでから振り返れば、故人に対する自責の念となって、賢治にも両親の心にも振りかかったことでしょう。

ギトンには、このような経緯による“とりかえしのつかなさ”が、“三部作”に見られる賢治の過剰な自責の基にはあると、感じられるのです。

賢治がここで、

. 春と修羅・初版本

10おまへがあんなにねつに燃され
11あせやいたみでもだえてゐるとき
12わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり
13ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた

と書いているのは、妹が苦しんでいることは見ていながら、妹自身が弱音を吐かず、要求も言わず、気丈に我慢しているために、その苦痛の重大さに気づかなかったという悔恨の念★が大きいと思うのです。なぜなら、「日のてるとこでたのしくはたらいたり/ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた」ことを悔いるとは、ほとんど、自分が健康であったことを悔いているにも等しい言い方だからです。

★(注) 宮澤賢治が、こうしたことをとりわけ悔いたのは、法則的な理化学を中心とする教育を受けた“理科系人間”だったことも大きいと思われます。“病死には原因があるはずで、原因が分かれば対策が打てるはず”という理科系の頭では、“それなのに、なぜ想定外の死去に立ち至ったのか?何が悪かったのか?”と悩むことになるのです。賢治の筆先が表現するものは宗教的であっても、じっさいの彼のバックボーンは、より多く科学者のそれだったように思われます。

しかし、「ほかのひとのことをかんがへ」ていたと書いているのも事実でして、それが全く意味のない例示とは考えられません。というのは、この1922年3月の「恋と病熱」では:

. 春と修羅・初版本

01けふはぼくのたましひは疾み
02烏さへ正視ができない
03 あいつはちやうどいまごろから
04 つめたい青銅の病室で
05 透明薔薇の火に燃される
06ほんたうに、けれども妹よ
07けふはぼくもあんまりひどいから
08やなぎの花もとらない

と書いているからです。いつものように、妹の病床へ、ネコヤナギの花や緑の小枝を持って行ってやる気にならないと言っているのですが、
真黒いカラスさえ正視できないほど「たましひは疾み」「あんまりひどい」心の葛藤は、家族以外の誰かに対する「恋」のためと考えられます。



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