ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.2.5


そういうわけで、

12わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり
13ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた

は、「わたくし」の過剰な悔悟、病死した妹に対する過剰な自責と読めるわけですが、そうした自責の起こる理由、原因の分かりにくさが、論者を悩ませているようです。

ギトンは、「永訣の朝」で、付添い看護婦の回想聞書きと「年譜」を照らし合わせた結果、“無声慟哭三部作”はフィクションであることを突き止め、事実は、(賢治のみならず家族全員が)トシの若すぎる死を、“想定外”の事態としてしか受け止められなかった、そして、そのことがトシの死期を早めてしまったかもしれない──“トシ死亡”事件として、じっさいに起きたのは、そのようなことがらだったと考えました。
したがって、賢治の“無声慟哭三部作”には、これに対する悔恨の念が、大きく作用しているに違いないと考えるのです☆

☆(注) 「松の針」でも、詩の現在時はトシ死亡の日、つまり死亡以前ですが、それはフィクションであり、作者は、トシ死亡後に振り返って書いているのです。ここに現れている賢治の心理が、臨終当日(11月27日)から相当の月日を経た後のものであることは、明らかではないでしょうか?当日は、トシ死亡という“想定外”の事態に驚き、放心するほかはなかったでしょう。その後の葬儀も平坦ではなく、「どうしたことか、焼き場が火事を出して焼けてしまったということで、としさんは焼場の野天の下で火葬にしました。賢さんたちはナムミョウホウレンゲキョウとおだいもくをとなえつづけました。」(『宮沢賢治の肖像』,p.156)浄土真宗の一家の中で、故人と賢治だけが日蓮宗であるわけですが、葬儀に参加した親戚の中には、関徳弥氏のように、賢治の薦めで『国柱会』に入った人が何人かいたのです。そして、拾ってまとめたお骨の前で、賢治が分骨を主張して両親と口論する一幕もありました。結局、遺骨の大部分は、浄土真宗・安浄寺にある先祖代々の墓に入れ、賢治が持参した小さな罐にも分骨しました。しかし、その分骨を『国柱会』の廟所(静岡県三保)に誰が持参するかで、また議論があったと思われます。父・政次郎氏は、自分が持参すると主張し、賢治が持って行くことを許さなかったので(ギトンの推定)、翌年1月に賢治が「妙宗大霊廟」へ行って合祀と戒名の授与(1月9日)だけ済ませ、実際の納骨は、春の終り頃に政次郎氏と次女・シゲが持参しました(『新校本全集』「年譜」)。このようなゴタゴタが済んだあとで振り返ってみれば、亡くなったトシ本人に対しては、非常にすまなかったという気持ちでいっぱいになったのは、よく理解できることではないでしょうか?

もっとも、家族が、トシの病状を必ずしも深刻に受け止められず、主治医を呼ぶのも遅れてしまった原因として、トシ本人の遠慮がちな性格、周囲の人に迷惑をかけまいとして無理をしてしまう性格(賢治とよく似ています)が、災いしていたことも考えられます。

付き添い看護婦細川キヨからの聞書きには、たとえば:

「としさんが女学校の先生になって、つとめるようになったのは、女学校で先生がたりないから、ぜひぜひといってたのまれたからだそうです。
 自分の出た学校ですし、あんまり一生けんめいにやったので、だんだんつかれて病気になったのです。それでもわざわざ学校までスープを持っていくとか、おかゆを持っていくとかしてつとめていたのですが、大正十年の九月には、家を出ていた賢治さんを東京からよぶようになり、としさんは先生をやめられたということでした。」


★(注) 森荘已池『宮沢賢治の肖像』,p.152. 宮澤トシは、日本女子大学校在学中に感冒から肺疾を併発して1918年12月20日から19年2月下旬まで東京で入院、卒業認定を受けて花巻の実家に戻り療養。20年9月に花巻高等女学校に教諭として就職したが、病気がちで、21年4月はじめ、高女の依頼で日本女子大に後任教師の斡旋を頼みに出かけています。花巻に帰ってから疲労回復せず、5月の創立記念日には倒れそうになるなど。しかし、後任はなかなか決まらず、無理を押しての勤務を続け、9月には喀血して退職、その後は寝たきり病人となります(『新校本全集』「年譜」)

という部分があります。トシは、東京の病院から退院して花巻に戻って来たあとも、病気がちであったにもかかわらず、女学校に勤めて無理をしすぎたようです。それが、早逝の原因になったことは、考えられるでしょう。優秀で親身な看護婦として宮澤家でも褒められた(『宮沢賢治の肖像』,p.148-149,151,156.)キヨの観察は、傾聴に値すると思うのです。

トシは、「倒れそうになる」ほど体調を崩しても、自分で後任教師を確保しなければ学校を辞められない状況であったために、喀血して勤務不可能となるまで、無理な出勤を続けたのです。

そして、同様のことが↓、いよいよ病状が重くなってからも、繰り返されたのではないでしょうか?

〔1922年11月はじめ、トシは下根子の別宅で治療中だったが──ギトン注〕しぐれが降ると、ぱらぱらと枯葉が散って何となくあたりがさびしくなってきました。ぬかるみになって道も悪くなってきました。そこで、何にかに物を運んだりするのも無理だから、としさんには豊沢町〔宮澤家の本宅──ギトン注〕に移ったらということになりました。そうしますと、『あっちへいくと、おれ死ぬんちゃ、寒くて、くらくていやな家だもな。』

と、移りたくないようでしたけれど、みんながなんぎするのだと思うと、移りたくないと、がんばるようなたちの人ではなかったのです。たしかに、こういうところが、よいところでもあり、わるいところでもあるのでしょう。」
(op.cit.,pp.154-155.)
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