ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.2.4


“美しく、きよらかで、けなげな妹”として理想化されたトシ像の影で、煩悩にまみれている生身のトシを忘れなかったからこそ、作者は詩が書けたと思うのです。

16鳥のやうに栗鼠のやうに
17おまへは林をしたつてゐた
18どんなにわたくしがうらやましかつたらう

という部分も、冒頭の“はげしい衝動のさま”を踏まえて読めば、狂おしいまでに健康な身体を羨むトシの煩悶が見えてこないでしょうか?

「鳥」とか「リス」とか‥、作者は、いろいろなものをすぐに“童話化”し、やさしくキレイにしてしまうのですが、じつはそうした言葉の背後には、つねに、激しく、とぐろを巻くような人や事物の感情が、隠されている──語られることなく、しかし、それを作者はつねに見つめている──と、ギトンは思うのです☆

☆(注) こうした・いわば“沈黙のエクリチュール”が顕著に現れるのは、晩年の《文語詩稿》においてだと思います。天澤退二郎「賢治詩のゆくえ──『文語詩稿』覚書」,in:同『《宮澤賢治》鑑』,1986,筑摩書房,pp.162-172,とくにpp.171-172参照。しかし、それは、すでに口語詩時代の最初から、あるのだと思います。

このように理解したうえで、つぎの↓中間部分を読んでみると、どうでしょうか?





09そんなにまでもおまへは林へ行きたかつたのだ
10おまへがあんなにねつに燃され
11あせやいたみでもだえてゐるとき
12わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり
13ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた

はじめにお目にかけたギトンの“半年前の感想”でも触れましたが、この作品のカナメは、妹に対する作者の後悔の気持ちにあると思います。

しかも、作者の後悔は、「端的に、自分が健康であったことが罪だった、と言わんばかり」の悔恨の念で、作品のテキストだけを読めば、‥どうして、ここまで後ろ向きに悔いるだろうか?‥と訝しく思うほどなのです。

しかし、トシ臨終の日の実際の状況を見てきた私たちには、作者の後悔は、もう少し解りやすくなっています。
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