ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.1.29


このように、作者の前に現れる第三者はみな、“作者と同様に意思や感情を持って生きている・ひとりの人間である”という属性、つまり《他者性》を剥奪され、あるいは、無視されてしまって、ともすれば作者の描く“目くるめく《心象》風景”の一部として、風景に溶け込んでしまいます。
このような・『春と修羅』前半の特質は、栗谷川氏によれば、作者賢治の《主体》──明滅する《心象》風景を観察し、ありのままに「記録」しようとする作者自身が、確固たる統一性ある《主体》たりえていなかったことに基いているのです:

「ことなくひとのかたちのもの/〔…〕おれを見るその農夫」に対して、作者は、「ほんたうにおれが見えるのか」と心の中で問うのですが、

「なぜ農夫には賢治が見えないのか。農夫もそこに『ひとのかたち』を認め、そしてそれを農学校教師の宮澤賢治と呼ぶかもしれない。〔…〕だが、これは賢治ではない。賢治は『修羅』と名づける異次元をさまよっている。その異次元が農夫に見えないとすれば、農夫が認めた賢治は、現実に残した賢治の抜けがらたる『白いかたち』に過ぎない。〔…〕

 この他者の不在は、賢治の側における現実的な人格の不在であった。他者と相対し、これとなんらかの関係を結ぶ賢治の人格は、現実意識と異次元の間で分裂し、他者を他者として受けとめることができないのである。

 〔…〕『春と修羅』
〔第1章の作品「春と修羅」──ギトン注〕では、現実と異次元は『二重の風景』として混在し、『人』は陽炎のようにゆらめく二重の風景の中から、朦朧として現れてくる。これを見る賢治も、見るものとして確立された『われ』ではない。『春と修羅』において賢治が詠いあげているのは〔…〕混沌状態における 気 分 なのである。」

作者が自己を、統一された一個の人格として捉えることができず、そのときどきに、さまざまな《心象世界》──現実界や、さまざまな《異界》をさまよう「あらゆる透明な幽霊の複合体」(序詩)としてしか自己認識できなかった間は、作者の前に現れる第三者もまた、統一した「人」としては捉えられず、ゆらめく光の澱(おり)にすぎない“風景”の一部でしかなかったのです。

しかし、

「この自意識の分析が鋭くなるにつれて、現実と異次元という二重の風景は截然と区別されるようになる。そして賢治自身は、この二つの世界の接点にいよいよ追いつめられていくことによって、『われ』を明確に規定していくことになる。」
(op.cit.,p.189)

「たび人」のやや前の時期に書かれた作品「印象」は、作者が、統一的な《見者》としての自己を認識して行こうとする途上の自画像を提示しています:

「そのとき展望車の藍いろの紳士は
 X型のかけがねのついた帯革をしめ
 すきとほつてまつすぐにたち
 病気のやうな顔をして
 ひかりの山を見てゐたのだ」

「展望車の藍いろの紳士」は、小岩井農場の馬トロの荷台の上に立って馬を操る“馭手”なのですが、賢治は、「まっすぐにたち〔…〕ひかりの山〔岩手山──ギトン注〕を見て」いる“馭手”の姿を、《心象》世界を観察している自分の姿になぞらえているのです。というのは、この詩と同じ日付の詩「岩手山」で、賢治は、岩手山という「明滅する心象」を、「その流転の相において定着された」一個の客体として、はじめて十全に捉えることに成功しているからです(op.cit.,pp.175,177.)

「   岩手山
 そらの散乱反射のなかに
 古ぼけて黒くえぐるもの
 ひかりの微塵系列の底に
 きたなくしろく澱むもの」

「『明滅する心象』が、その流転の相において定着されたということは、むしろその『心象』を抱えて、四次元と現実の間で、絶えず変貌を繰り返していた賢治という主体が、ある相において確立されたことにほかならなかった。〔…〕この影のような人物は、〔…〕時間を超越した四次元を見詰めながら、彼自身透明になって、そこへ融け込んでいくかのようである。しかし、最後の二行で、その消え残った『病気のやうな顔をして/ひかりの山を見てゐ』る姿が、まるで書きかけのデッサンのように、現実に痛ましいような線描として浮かび上がる。」
(op.,cit.p.177)




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