ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.1.2


「あめゆじゅとてちてけんじゃ」──いちおう説明しときますと、花巻の方言らしいんですが、臨終の妹トシが賢治に、「(庭に積もっている)みぞれ(あめゆき)を取って来てください」と頼む──詩の上では、頼んだとされている。それが、ホントなのかフィクションなのかは、あとで論じます──コトバなんですね。

べつに、方言だから“小さな言葉”なんではないと思います。
仮に、標準語で、「雨雪とってきて、お兄ちゃん」と書いてあったって、やはり“小さな言葉”です。「雨雪」も「みぞれ」も、人生を左右するほどの、あるいは世界をゆるがすほどのデカイ意味を持ってはおりません‥そのコトバ自体は。

しかし、「永訣の朝」の中で、4回繰り返されるこの言葉(センテンス)の重みは、‥詩の「わたくし」にとっては‥、また、読者にとっても‥、「死」がどうの、「愛」がどうの、「神」がどうのと、派手にさけぶよりも、ずっとずっと大きいのです。。。

そして、「永訣の朝」の率直な詠唱を讃えた高村光太郎も‥──この詩のモチーフを、自分の妻との死別を描いた『智恵子抄』「レモン哀歌」に生かしていますが──「雨雪とってきて」のような“小さな言葉”を使う才覚──“ナノテクノロジー”までは、受け継ぐことができなかったと思います‥

そこで、この“ナノテクノロジー”──さりげない技巧──ということを最初の手がかりにして、“トシ臨終三部作”を考えてみたいと思います。


最初に、ご存知の方には当たり前すぎるデータ的なことを、確認しておきたいと思います:

宮澤賢治は長男で、下に3人の弟妹がいました。すぐ下が長女のトシ(戸籍名は「トシ」。賢治は作品の中では「とし子」と書いています)、賢治とは2つ違い。1922年に亡くなった時は24歳でした。その下が、次男の清六──賢治が亡くなる時に遺稿の管理を任されて、まぁ‥今日ある“宮沢賢治”を作り出したのはこの人、と言ってよい有名な方です。清六氏の下には、さらに次女のシゲ、三女のクニがいます。

ですから、賢治にとって、妹はトシだけではないんですが、兄弟の中で早逝したのはトシ(その11年後に賢治)だけですし、賢治と年が近かった。それに、この2人は、兄弟の中でずばぬけて秀才で、学校の成績はトシのほうが兄より良かったほどです。それで、東京の日本女子大学に行っている間に、肺疾(おそらく肺結核──賢治と同じ持病)を発病して、花巻に戻ってからは病臥と小康を繰り返していました。

そして、『春と修羅』第1章の「恋と病熱」にも書かれているように、この1922年3月には、相当病状が重くなっていたようです。
7月はじめには、トシを下根子の別宅(のちに賢治が『羅須地人協会』を開く建物:⇒画像ファイル:下根子の別宅)に移して、賢治もそちらで寝起きして、下根子から農学校に通勤します。

しかし、トシの病状がほんとうに重くなったのは、11月19日に豊沢町の本宅に戻してからだったようです。

トシは、本宅の暗い病室がいやで、

「あっちへいくと、おれ死ぬんちゃ、寒くて、くらくていやな家だもな。」

と言ったそうですが☆、その言葉どおり、移って約1週間後の11月27日に亡くなっています。

☆(注) 森荘已池『宮沢賢治の肖像』,1974,津軽書房,p.154.

「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」の“三部作”は、1922年11月27日の日付になっています。つまり、この3篇は、トシの死亡した日に取材され、トシの臨終と死だけを描いています。(正確に言うと、“死”までは描いていません。「無声慟哭」の最後まで、トシは生きています。)
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