ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.1.28


そればかりでなく、「小岩井農場」のほかの箇所や、この詩集『春と修羅』の他の詩篇を見渡しても、最初の「屈折率」から「小岩井農場」を経て「東岩手火山」に至る前半部分では、作者の前にはっきりと《他者》が現れてくる箇所は、見当たらないのです。

「小岩井農場」について言えば、「パート7」に登場する“老農夫”にしろ、“若い農夫”にしろ、「Miss Robin」の少女たちにしろ、作者とつりあう重みを持った《他者》として、作者と相渉るわけではありません。“老農夫”に対しては、賢治は関心を持って礼儀正しく話しかけたのですが、“老農夫”のほうが、この“よそ者”には無関心で──あるいは、何らかの理由で忌避し、いいかげんな受け答えしかしません。“若い農夫”は、“よそ者”である賢治とも快活に言葉を交しますが、深い交流はなく、作者は、“若い農夫”と「Miss Robin」たちの会話を、まぶしそうに観察しているにとどまるのです。

「農夫たちは好意をもって描かれているが、風景であって眺められたものでしかない。」


☆(注) 境忠一『評伝宮沢賢治』,1968,桜楓社,pp.163-164.

「四つ森」付近──デア・ハイリゲ・プンクト(聖なる地)──で出会う小学生の一団に至っては、まったく、幻想化した風景の一部になりきっています。彼らにも、《他者性》はありません。

そもそも、賢治の認識する《心象》風景は、アニミズムに満ちています。森や、野原や、リスや、小鳥は、それぞれの感情を持った存在として描かれます。そこに、「くろいイムバネス」の紳士や、“老農夫”や、「Miss Robin」たちを置けば、彼らもまた“風景”の一部でしかないのです。

「草地の黄金をすぎてくるもの
 ことなくひとのかたちのもの
 けらをまとひおれを見るその農夫」
(春と修羅)

「あめの稲田の中を行くもの
 海坊主林のはうへ急ぐもの
 雲と山との陰気のなかへ歩くもの
 もつと合羽をしつかりしめろ」
(たび人)

このように、「もの」という言い方で、眺められた第三者を指示している箇所が、しばしば見られます。

「スケッチの人物からは、現実の影は全く拭い去られて、〔…〕賢治はここで、決して他者としての『たび人』を描いていない。

 ここでも『もの』という言葉が多用されているが〔…〕賢治は『もの』によって、我々が普通にいう『物』そのものを表していない。『もの』とは、実体ではない。現象なのである。あるいは、移り変わる(明滅する)現象こそ、賢治が考えた万物の実体であったといえる。〔…〕賢治の捉える自然は、『明滅する』心象の中で、絶えず移り変わり、一瞬たりとも安定した姿をもたない現象であった。」

「『もの』という語の多用は、そのうつろいゆらめく存在を、現象のままに捉えようとする努力にほかならなかった。」
(『見者の文学』,p.178-179.)

「ゆらめく心象風景の中で、他人は『人』ですらない。『すぎてくるもの』、黄金色の草地を動くものでしかない。これはいわば、あらゆる属性を剥奪された現象そのものであって、物と物との関係において捉えられた『人』は存在しない。」
(op.cit.,p.187)
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