ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.1.27


“異界と死者との関係いかん”、あるいは、“異界と、死後の世界との関係いかん”という問題は、“トシの死”という事件を通過することによって作者が直面した・第1番目の課題でした。

作者が、その死の一年前まで推敲・改稿を繰り返していた童話『銀河鉄道の夜』は、この問題に対する・ひとつの回答の試みだったのではないかと思います。

その《最終形》において、作者は、ブルカニロ博士による“四次元世界”の説明──『春と修羅(第1集)』「序詩」にも書かれた歴史と科学の錯綜した変遷史──を全面的に削除し、代りに書かれた河岸の場面で、「博士」であるカムパネルラの父は、水没後の時間の経過によってカムパネルラの死を確信しつつ、ジョバンニのほうを向くと、まるでカムパネルラは何事もなく生きているかのように、「あした放課后みなさんとうちへ遊びに来てくださいね。」などと言うのです。

この童話で、“銀河鉄道”の走る異界は、死者の通る通路です。しかし、そこを通って死者が赴いてゆく世界は、知りえないのです。
キリスト教の天上は、それなりにあるらしく、キリスト教徒の死者たちは、家庭教師の「青年」に導かれて☆、そちらへ進んで行きますが、彼らが跪いている「七色の十字架」の向こうが、どこへ繋がっているのかは、汽車に乗って遠ざかるジョバンニらには見えなくなってしまいます。そして、カムパネルラの赴く世界は、ジョバンニにも読者にも全く見えないのです。ジョバンニは、夢から覚めたあとで、「そのカムパネルラはもうあの銀河のはづれにしかゐないというふやうな気がしてしかたなかった」と思うだけです★

☆(注) この「青年」の挙動には謎が多く、ストーリーの鍵を握る人物のひとりと思われます。例えば、銀河鉄道列車の後続車両から讃美歌「主よ、みともに近づかん」(初期形二)の合唱が聞こえて来た時、青年は「さっと顔いろが青ざめ、たって一ぺんそっちへ行きさうにしましたが思ひかへしてまた座りました。」(初期形三,最終形)最終形では、この讃美歌をジョバンニとカムパネルラも「一諸にうたひ出したのです。」という文の後半だけを曖昧に消しかけています。ここには、宮沢賢治のキリスト教(の死後世界)への傾斜が見えて興味深いのです。

★(注) 『銀河鉄道の夜』(最終形)についていえば、ジョバンニが《天気輪の丘》の上で夜空を見上げ、「ところがいくら見てゐても、そのそらはひる先生の云ったやうな、がらんとした冷いとこだとは思はれませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のやうに考へられて仕方なかったのです。」と言う“天上”のイメージ(アイヌ信仰の“異界”に似ている)、あるいは、その《午後の授業》で、“天の川の実体は何か?”という先生の質問に、ジョバンニもカムパネルラも、なぜか答えられなくなって立ち往生してしまう理由が重要です。仏教の“浄土”(この童話には全く現れません)もキリスト教の“天上”も否定し、“科学”によって解決しようとする「ブルカニロ博士」をも消去してしまった作者は、どこへ行こうとしていたのか?
「永訣の朝」の「あんなおそろしいみだれたそらから/このうつくしい雪がきたのだ」(47-48行)に遥に呼応する世界が(6.1.6)、作者には仄見えていたとは言えないでしょうか。しかし、賢治はそれを書き下ろす前に亡くなったのでした。





さて、作者が直面した第2の課題は、“他者”の問題です。“トシの死”を通過することによって、作者は、本格的な意味での“他者”に直面するのだと思います。

「《あのみぞれ取ってきてちょうだい》というとし子の直截な願い〔…〕それは孤独のまま進行していた賢治の詩の営為へ他者が、それも愛する妹が、はじめて自ら投げ入れてきた参加のブイであった。」


◇(注) 天沢退二郎『宮沢賢治の彼方へ』,増補改訂版,1977,思潮社,p.164.もちろん、この「ブイ」は、救命ブイの本来の意味、すなわちトシが賢治に差し伸べた救いの手として理解すべきです。

ここで、天沢氏の言う「参加のブイ」について、おさらいしておきますと:
「小岩井農場・パート2」で、作者は、1月の農場訪問を回想して、↓こう語っている部分がありました:

「冬にもやつぱりこんなあんばいに
 くろいイムバネスがやつてきて
 本部へはこれでいいんですかと
 遠くからことばの浮標(ブイ)をなげつけた
 でこぼこのゆきみちを
 辛うじて咀嚼するといふ風にあるきながら
 本部へはこれでいゝんですかと
 心細さうにきいたのだ
 おれはぶつきら棒にああと言つただけなので
 ちやうどそれだけ大へんかあいさうな気がした」

「小岩井農場」のところで論じたように、この「くろいイムバネス」を着た通行人については、作者分身説がありました。しかし、作者の分身であっても、そうでなくても、いずれにせよ、作者とは独立した“別人格”の《他者》として認識される度合いが低いことは否定できません。
作者「おれ」にとっては、関心を払うに値しない“現象”で、いわば風景の一部にすぎないのです。

高価な“インバネス”を着た・この紳士は、近在の村人などではなく、見るからに金のありそうな“よそ者”です。何かの用事で雪の農場へ行く途上、「でこぼこのゆきみち」で心細くなり、若干教育があると思われる賢治を見つけて──“仲間”を発見したと思って喜んだのか──親しげに

「本部へはこれでいいんですか?」

と話しかけたのです。
しかし、賢治は、この種の人物を快く思っていませんし、紳士の話しかけ方が、「浮標(ブイ)をなげつけ」るような──つまり、“上から目線”で、“お前も心細いだろう、助けてやるぞ”と言わんばかりの横柄な調子に思われたので、

賢治のほうも、わざと横柄に、「おれはぶつきら棒にああと言つただけ」で無視したのでした。

つまり、作者は、この「くろいイムバネス」の紳士を、まっとうな《他者》と認めることを拒否しているのです。
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