ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.1.24


「もし溺れる生徒ができたら、〔…〕たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐた」と言うのです。自分も追いかけて行って死ねば、死後の世界へ同伴してやることができると思っていたのです。

これは、賢治が、この文章で言っているような「軽率」な考えというよりは、むしろ本気でそう思っていたように思われます。というのは、次のような体験を書いている書簡があるからです:

「石丸さんが死にました。あの人は先生のうちでは一番すきな人でした。ある日の午后私は椅子によりました。ふと心が高い方へ行きました。錫色の虚空のなかに巨きな巨きな人が横はってゐます。その人のからだは親切と静な愛とでできてゐました。私は非常にきもちがよく眼をひらいて考へて見ましたが寝てゐた人は誰かどうもわかりませんでした。次の日の新聞に石丸さんが死んだと書いてありました。私は母にその日『今日は不思議な人に遭った。』と話してゐましたので母は気味悪がり父はそんな怪しい話をするな、と云ってゐました。

 石丸博士も保阪さんもみな私のなかに明滅する。みんなみんな私の中に事件が起る。」

(書簡[153]1919年8月上旬、保阪嘉内あて)

「石丸博士」は、盛岡高等農林学校林学部長・石丸文雄教授のことで(⇒:石丸教授)、1919年8月2日死去、3日『岩手日報』に死亡記事が出ました。その石丸教授が亡くなった時に、賢治の白昼夢の中に現れて、惜別したと言うのです。

死んでゆく石丸教授も、生きている保阪嘉内も、「みな私のなかに明滅する」──賢治の《心象》の中に現れて、賢治と“霊的に”交感すると、言っています、宮澤賢治は、そのような《心象》を、信じていたというよりも、現に現れてくるようすを見ていたのだと思います。

そして、この書簡の最後には、次のように書かれています:

「けれどもけれども半人がかしこくなってよろこぶならば私共は死にませう。死んでもよいではありませんか。」

ここでは論証を省略しますが☆、↑この結語の意味は、“現実界の保阪が「かしこくなってよろこぶ」ならば、霊界の保阪と賢治は心中して死んでしまおうではないか。”という意味だと思います。この時保阪は、『青年団指導者講習』受講のため上京中で、この機会に東京で会いたいと賢治に書き送ったようです。それに対して、賢治は、上京は難しいことを述べた上で、「私共は一諸に明るい街を歩くには適しません。」と、この書簡に書いています。賢治は、保阪が、在郷軍人関係に繋がる思想統制的な『青年団』★に関わってゆくことを、危惧していたのです。

☆(注) 栗谷川氏は、ギトンに近い読みを述べておられます:『見者の文学』,pp.84-85.

★(注) 危険思想の疑いで盛岡高等農林を強制退学になった保阪にとっては、“転向”して『青年団』関係の指導者の道へ進むことが、人生を挽回するほとんど唯一の道だったように思われますし、じっさいにその道を歩んで行きます。しかし、宮澤賢治は、すでにこの頃から、軍国主義に向かう戦時統制的な『青年団』の活動に対して、強い危惧を持っていたようです。大明敦・他編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』,2007,山梨ふるさと文庫,pp.91-93。なお、のちに(1934年)中原中也は、亡き賢治へのオマージュと言うべき詩「誘蛾灯詠歌」の中で、日本国内を軍事色に染めつつあった『青年団』に対して、強い嫌悪を表明しています。

このように、宮澤賢治は、身近な者が死ぬ時には、自分は死者と“霊的交感”ができると思っていたように考えられます。

ただ、それが、『春と修羅』の詩篇に描いている彼の《心象》世界、つまり《異界》と、どんな関係にあるのかは、非常に曖昧だったと言わざるをえません。

賢治は、《異界》を見ている──というよりも、《異界》のほうから彼に姿を現し、彼は、いやおうなく見せられていると感じていました◇。しかし、《異界》とは死者の世界なのかというと、そのへんは賢治自身よく分かっていなかったと思います。

◇(注) 『見者の文学』,pp.42-43,132. 賢治は、「小岩井農場・パート9」で、「幻想が向ふから迫つてくるときは/もうにんげんの壊れるときだ」と述べて、《異界》の視覚が、否応なく眼に迫って来るさまを、恐怖をもって記していますが、その次の行では、「わたくしははつきり眼をあいて歩いてゐるのだ」と述べ、理性をしっかりと保持しながら、この視覚を受け入れ、記録して行こうとするのです。
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