ゆらぐ蜉蝣文字
□第6章 無声慟哭
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6.1.23
さて、「心象での霊的な別れ」(p.229)という栗谷川氏の読みを、ギトンなりに解釈しますと、つぎのようになると思います:
臨終の日に、じっさいには、トシは全く会話もできない状態のまま息を引き取りました。
上で引用した細川キヨの証言によると、息を引き取った時も、
「賢さんが、ぎっしりとしさんの胸と首を抱きかかえて、
『としさん、としさん、キヨさんもいるよ、おどさんもおがさんもいるよ。みんないるよ、としさんとしさん。』
と、大きな声で叫びました。目はぱっちりとひらいたままでしたが、としさんは返事しませんでした。きこえるのか、きこえないのかもわかりません。すると賢さんは、押入れをあけて、ふとんをかぶってしまって、おいおいと泣きました。」
という状況です。
賢治も他の家族も、トシの死の間際まで、まだ若いトシが死ぬなどということは、心情的に受け入れられなかったのです。たとえ主治医の宣告があっても、“未来の死の確信”どころか、予想さえ持てなかったことが分かります。
そこで、トシが死んだ後で、作者は、妹と“お別れ”の会話ができなかったのが、たいへん心残りだったろうと思います。
トシ「あめじゅとてちてけんじゃ」
賢治「さっきのみぞれをとってきた。あのきれいな松のえだだよ」
トシ「ああいい、さっぱりした。まるで林の中さ来たよだ」
トシ「おら、おらで、しゅとり行(え)ぐも」
賢治「わたくしにいっしょにいけとたのんでくれ。。。」
こんな会話をしたかったのだと思うのです。
そこで、作者がトシ子と“できなかったが、したかった”別れの挨拶を、──もしできたとしたら、このようにしただろうフィクションとして描いたのが、この3つの詩篇なのだと思います。
“できなかった”というのは、現実に会話がなかっただけでなく、トシが息を引き取ったあとで、作者の異界幻想の中でも“できなかった”のだと思います。
つまり、栗谷川氏の言うトシとの“霊的会話”は、《心象》のスケッチではなく、フィクションだと、ギトンは思うのです。
そもそも、賢治は、トシの死という事件に直面するまでは、自分の身近な人が死んだら、自分は死者と通信ができる、自分にはそういう能力があると信じていたようなのです。通信どころか、「死ぬことの向こう側まで」死者に同行して、励ましてやることができると、思っていたようなのです。
この1922年8月☆に書かれた散文『イギリス海岸』は、生徒たちを放課後、北上川に連れて行って水遊びをさせた際のことが描かれていますが、次のような一節があります:
「その人は少しきまり悪さうに笑って、
『なあに、おうちの生徒さんぐらゐ大きな方ならあぶないこともないのですが一寸来て見た所です。』と云ふのでした。なるほど私たちの中でたしかに泳げるものはほんたうに少かったのです。もちろん何かの張合で誰かが溺れさうになったとき間違ひなくそれを救へるといふ位のものは一人もありませんでした。
〔…〕おまけにあの瀬の処では、早くにも溺れた人もあり、下流の救助区域でさへ、今年になってから二人も救ったといふのです。いくら昨日までよく泳げる人でも、今日のからだ加減では、いつ水の中で動けないやうになるかわからないといふのです。何気なく笑って、その人と談してはゐましたが、私はひとりで烈しく烈しく私の軽率を責めました。実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです。そして私は、それが悪いことだとは決して思ひませんでした。
さてその人と私らは別れましたけれども、今度はもう要心して、あの十間ばかりの湾の中でしか泳ぎませんでした。」
☆(注) 『イギリス海岸』の執筆時期は、小沢俊郎氏の推定による:小沢俊郎「アルビヨンの夢と修羅の渚」,in:同・編『賢治地理』,1975,学藝書林,pp.8-25.
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