ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
21ページ/73ページ


6.1.20


なお、本宅での病室のようすについては:

「古い家で、陰気でしたし、その上カヤをつってびょうぶでかこいますから、とてもくらくて穴ぐらにでも入ったようなのです。」

とあって、「永訣の朝」に:

. 春と修羅・初版本

41あぁあのとざされた病室の
42くらいびやうぶやかやのなかに

と書かれているのは、事実だと分かります。

11月なのに蚊帳をしているというのは、私たちには変に思われますが、下根子の別宅でも、トシのベッドは、ずっとカヤと屏風で囲っていたと、この細川キヨからの聞書きには書かれています。病人は、そうやって囲う習慣だったのかもしれません。

ともかく、“三部作”の作品日付である“臨終の日”11月27日の実際の状況は、トシは朝からすでに危篤状態だったということです。

“三部作”に描かれたような、トシが賢治に、みぞれを取ってくるように依頼したとか、「私は私で、ひとり行きます」と言ったとか(以上、「永訣の朝」)、賢治の持って来た松の葉枝に頬を押し付けて喜んだとか(「松の針」)、自分の身体の匂いを気にして母に尋ねたとか(「無声慟哭」)‥どれもみな、現実にトシに、そのような行動をする余力があったとは、とうてい考えられないのです。これらは、賢治のフィクションとしか考えられません。

「あめゆじゅとてちてけんじゃ」は、事実ではなく虚構なのです!

トシの死後、1923年頃、賢治が印刷して知人に配布した〔手紙4〕という匿名文書があります:

「わたくしはあるひとから云ひつけられて、この手紙を印刷してあなたがたにおわたしします。

 ポーセはチユンセの小さな妹ですが、〔…〕

 ところがポーセは、十一月ころ、俄かに病気になつたのです。〔…〕「雨雪とつて来てやろうか。」「うん。」ポーセがやつと答へました。チユンセはまるで鉄砲丸のやうにおもてに飛び出しました。〔…〕」

こちらのヴァージョンでは、妹は、少なくとも、「取って来てください」と頼んではいないのです。

「あめゆじゅとてちてけんじゃ」は、少なくとも臨終の日の病床での実際の言葉ではなかったと、考えなければならないでしょう。

「おら、おらで、しゅとり行ぐも」も、同様でしょう。

これらは、トシとの“霊的な会話”として、賢治の想像の中で語られたトシの言葉だったと考えなければなりません。

ただ、「うまれでくるたて‥」については、細川キヨは、実際にトシが言ったと証言しています:

「臨終のとき、お父さんが、何かいうことがないかとききますと、

 『こんど生れてくるときは、こんなに、わりゃ(自分)のことばかり苦しまないように生れてくる。』

 といったのでした。」

しかし、さきほども推定の根拠を述べたように、このトシの発言は、“臨終の日”ではなく、その何日か前に父が問い、トシが答えたものと考えてよいのではないでしょうか?もちろん、26日以前の日であったとしても、これがトシの最後の言葉であることに、変りはないと思います☆

☆(注) 「うまれでくるたて‥」も含めて、「永訣の朝」のトシのセリフはすべて賢治の創作であるとする意見もあります:藤掛和美「『永訣の朝』の虚構」, 『宮沢賢治』,3号,1983.7.,洋々社,pp.185-199.
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ