ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.1.19


細川キヨによれば:

「豊沢町にうつってくると、やっぱり目にみえてよくありませんでした。」

「うしろから小指でつついただけで、つんのめってしまって倒れるような病人があるものです。としさんはそれと同じことです。」

とありますから、11月19日に本宅に戻されてから間もなく、危篤に近い状態になってしまったと思われるのです。

賢治がトシに南無妙法蓮華経の御題目を唱えさせたのも、トシの死期が近いことを感じていたためと思われます。下根子の別宅にいた時には、そのようなことはさせていなかったようですから。

「臨終のとき、お父さんが、何かいうことがないかとききますと、
 『こんど生れてくるときは、こんなに、わりゃ(自分)のことばかり苦しまないように生れてくる。』
 といったのでした。」

と回想しているのも、亡くなる27日のことではなくて、本宅に戻されてからの1週間の間のことだったのかもしれません。

父・政次郎も、トシの死期が近いことを感じて、「生まれ変わったら何になりたいか?」と尋ねたことがあったのではないでしょうか?この質問は、お坊さんが、死期の近い人を励ますために尋ねる文句として、しばしば言うものです。





しかし、細川キヨの詳細な回想を読んで行くと、宮澤家の人々は、賢治も含めて、臨終当日になっても、トシが死ぬということを、なかなか真剣に受け取らなかったふしがあります。

そもそも、脈拍が「十秒に二つばかり」という状態になるまで、家族の誰も異常を認めず、キヨは、(この家の主人である政次郎氏や、主婦(賢治・トシの母)ではなく)日頃親しくしていた賢治を「物かげの方によんで教えました。」と言うのです。そうやって初めて、主治医を呼んで来る手はずになったと言うのです。

そして、賢治自身も:

「目をおとすときには、みんなまくらもとに集っていました。賢さんが、ぎっしりとしさんの胸と首を抱きかかえて、

 『としさん、としさん、キヨさんもいるよ、おどさんもおがさんもいるよ。みんないるよ、としさんとしさん。』

 と、大きな声で叫びました。目はぱっちりとひらいたままでしたが、としさんは返事しませんでした。きこえるのか、きこえないのかもわかりません。」

というように、いよいよ人事不省となって反応が無くなっているのに、トシを抱きかかえて大きな声で呼んだというのです☆。つまり、賢治は、トシが死ぬ瞬間まで、それを信じられないでいた、受け入れられないでいたのだと思います。

☆(注) 「年譜」には、「トシの耳もとでお題目を叫び、トシは二度うなづくようにして午後八時三十分逝く。」と書かれており、こんにち、大多数の伝記や詩の解説は、これに基いています。しかし、死亡時刻以外は、事実とは思われません。何よりも、この状態でトシが「うなづ」けたとは思えませんし、瀕死の病人の耳元で御題目を叫んだというのも、いくら日蓮宗の狂信者でもありえない話だと思います。賢治がフィクションとして描いた諸詩篇に引きずられた記述ではないでしょうか。

そしてそれは、ほかの家族も同じだったと思われるのです。

トシの反応が無いことを知って驚いた賢治は、「押入れをあけて、ふとんをかぶってしまって、おいおいと泣き」、母は、未婚のまま死なせたのがくやしいと言って泣き、次女、三女らも「かたまりになって泣いておりました」という状況です。

それまで、ずっと、トシの死という“運命”を、全く信じられないでいた家族が、いっきょにこの“現実”に直面して、堰を切ったように号泣した状況が、目に見えるようではないでしょうか?
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