ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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《Si》 未来形の挽歌



【58】 永訣の朝

小説・詩




6.1.1


 1 さりげない技巧

みなさん、こんばんは!
オヤ?お久しぶり‥ なーんて言ってるのは誰ですか??w

じつは2ヶ月以上ぶりの更新です。
どうしてこんなに間があいたかというと‥

この「永訣の朝」から「無声慟哭」までの3篇‥いったいどう扱ったものやら、途方に暮れていたからです。。。

わからないとか、むずかしいというんではありません。
その逆で、分かりやす過ぎるw ‥分かりやすくて教科書にも載ってて(オェッ)、みぃちゃんも、はぁちゃんも、みんながみんな、それなり納得した顔をしてて その‘ナットクしかた’‘わかりかた’が、何というか、おもしろくなくて、‥‥‥‥

‥‥‥困るんですよねえ。。 こーゆーのぉ。。。

とくに、最初の「永訣の朝」に限って言えば‥ ミヤケンにはめずらしく率直で‥ いや、いかにも率直そうに見えて‥ つまり率直ブリが、あまりにも巧すぎて‥ そのくせ、かっこよさげに言い切ってすぎる感じです。。。

まあ‥ このあと詳しく見ていくように、じつは最初から最後まで徹頭徹尾かっこよさげじゃないんですが‥ ちゃんと(w)ボロが出てるんですが‥

とにかく率直でリッパ‥ こういう読み方を決定的にしたのは、高村光太郎だと思います。詳しくはあとで見ますが、光太郎が『春と修羅』に注目したのは、賢治の生前のことと思われますが、「永訣の朝」の評を公にしたのは、賢治の死後まもなくでした‥

それじゃ、光太郎をけなして、「永訣の朝」をクソミソに書けばいいのかというと‥ それではどうしょもないという気がします。

ギトンとて、この“トシ臨終三部作”がくだらないと思ってるわけじゃないんです。たしかに、数ある賢治作品の中でも、この3篇には、とりたてて評価すべき点があると思います。ただ、それは、教科書レーダーや、国語の先生が言ってるのとは、違う方向においてなんですが‥
その評価すべき点、世間の見方とは違うけれども、ぜひとも知ってほしい・これらの詩の真髄──それが、うまく言い表せられない、突き止められない‥だから、書けないんですね。。。(笑)

そうしていたところ、

最近、ある人から、↓次のような指摘を受けて‥ ん?これはイケルかも! と端緒をつかんだ気がしました。このさい無断で引用してしまいますと(ごめんなさい‥):

「固有の時間と場所でしか出現しない言葉を、僕は『小さな言葉』と考えます。

 賢治は小さな言葉の達人でもありますね。

 『あめゆじゅとてちてけんじゃ』なんかは、日本文学の歴史の上で、おそらく原初から未来永劫にわたり、たった一度しか出現しないナノテクノロジーな言葉ですね。」
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