ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.1.18


そこで、じっさいのトシ臨終の状況は、どうだったのか、どこまでが現実で、どこからが賢治のフィクションなのか、上記の森氏の聞書きで、確認しておきたいと思います:

「細川キヨ婆さん(明治十五年八月盛岡生れ。昭和二十三年六十七才)はとし子臨終のときまで付添いをしていた。わたしの親類筋にあたるのでその当時の模様をきくと次のように話してくれた。〔…〕」

「臨終のとき、お父さんが、何かいうことがないかとききますと、

 『こんど生れてくるときは、こんなに、わりゃ(自分)のことばかり苦しまないように生れてくる。』

 といったのでした。多くの人にめいわくばかりかけて、じぶんはじぶんひとりのことばかり苦しんで、みんなに申しわけないということだったでしょう。それは臨終の日のことで、
〔下根子の別宅から──ギトン注〕豊沢町〔本宅──ギトン注〕にうつってくると、やっぱり目にみえてよくありませんでした。古い家で、陰気でしたし、その上カヤをつってびょうぶでかこいますから、とてもくらくて穴ぐらにでも入ったようなのです。賢さんはいっしょにうつってきて、二階のへやにおられました。そしてときどき二階からおりてきては、ナムミョウホウレンゲキョウ何に彼にうんぬんと大きなこえでとなえて、としさんにも寝たまま手を合わさせて、ナムミョウホウレンゲキョウととなえさせるのでした。

 私は、まったくハラハラとして気が気でありませんでした。とても弱っている病人に、あんなマネをさせてはよくないと思ったのです。うしろから小指でつついただけで、つんのめってしまって倒れるような病人があるものです。としさんはそれと同じことです。」

「臨終の日は、寒くてくらくていやな天気の日でした。脈をみますと、十秒に二つばかりしかうたないので、おやと思いました。賢さんを物かげの方によんで教えました。

 『ごしんるいにもお医者さんにも教えて、つめてもらった方がいいと思いあんす。』

 といいました。

 そこで目をおとすときには、みんなまくらもとに集っていました。賢さんが、ぎっしりとしさんの胸と首を抱きかかえて、

 『としさん、としさん、キヨさんもいるよ、おどさんもおがさんもいるよ。みんないるよ、としさんとしさん。』

 と、大きな声で叫びました。目はぱっちりとひらいたままでしたが、としさんは返事しませんでした。きこえるのか、きこえないのかもわかりません。すると賢さんは、押入れをあけて、ふとんをかぶってしまって、おいおいと泣きました。

 お嫁さんにしないのがくやしいとお母さんが泣かれたのはこのときです。しげさんやくに子さんたちも、かたまりになって泣いておりました。」


☆(注) 森荘已池『宮沢賢治の肖像』,1974,津軽書房,pp.147-156.

↑この聞書きは、1922年11月の臨終までトシの付添い看護婦をしていた細川キヨからのものですが、これを見ると、臨終の27日にはトシはすでに危篤状態だったことが解ります。

宮澤家は裕福な旧家だったので、寝たきり病人のトシには、住み込みの付添い看護婦を雇っていました。細川キヨは、盛岡の「大正看護婦会」という団体から宮沢家に派遣された人で、就任の時期は、7月にトシが下根子の別宅に移った後でした(op.cit.,p.148)(⇒画像ファイル:下根子の別宅

「脈をみますと、十秒に二つばかりしかうたない」状態を見て、賢治に知らせ、主治医を呼び親類を集めるように言ったとありますが、『新校本全集』「年譜」には:

「一一月二七日(月) みぞれのふる寒い朝、トシの脈搏甚しく結滞し、急遽主治医藤井謙蔵の来診を求める。医師より命旦夕に迫るをしらされ〔…〕」

とありますから、脈拍が「十秒に二つばかり」という状態を発見したのは、27日の朝のことだったと思われます。つまり、朝、付添い看護婦★が起きて脈を計った時には、すでに危篤状態だったのです。

★(注) 同じ聞書きによれば、細川キヨは、夜はトシの床のすぐ隣に蒲団を敷いて寝ており、危急時にはすぐに起きて対処できるようにしていました。

この状態では、トシは、声を出したり言葉をしゃべったりすることはできなかったと思われます。まして、みぞれを取ってくるように頼むなどということは、ありえなかったと思われるのです。




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