ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.1.16


「死の確信」を繰り返している部分を拾ってみますと、↓つぎのようになります:

. 春と修羅・初版本

01けふのうちに
02とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ

. 春と修羅・初版本

16ああとし子
17死ぬといふいまごろになつて

. 春と修羅・初版本

36わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
37みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
38もうけふおまへはわかれてしまふ
 (Ora Orade Shitori egumo)
40ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ

しかし、‥ここからは、栗谷川氏とは少し異なるのですが、↑上の部分でも、例えば 36-38行目では、作中の「わたくし」は、確然たる「死の確信」に立っているわけではなく、そこには、“運命”を前にした人間の動揺が見られるように思います。“この世”への執着と、此岸に妹をつなぎとめて置きたいという人間的な願い、“運命”への作者の抵抗が、ほの見えるのです。☆

☆(注) 逆に言えば、本来は旺盛であってよい“死の運命”への人間的な抵抗が、ほの見えるに過ぎない、鬱屈した形でしか現れないという点が、“三部作”の特徴なのではないかと思います。(その点では、高村光太郎の『智恵子抄』のほうがずっと、愛する者に先立たれようとする作者の、ナマの感情・葛藤が、ありありと感じられます。)そこには、自己のみか、親族の死に際してさえも、この世への執着を断ち切らなければならない、断ち切らせなければならない。死に逝く者が生と生者に執着し、生者が逝かせまいとして執着することは、仏教の教理に反する──という“配慮”に、作者は支配されているように見えるのです。さらに言えば、作者賢治は、トシその人の意思をも超えて、妹の死を、宗教的に理想的なものにしなければならない事情に迫られていたようにさえ思われます。それはおそらく、トシが近親で唯一、賢治の勧めで日蓮宗に改宗した者であり、賢治としては、否が応でも、トシは日蓮信者として立派に往生したと言わなければならなかったように思われるのです。伝記資料に当たってみますと、11月27日の夕方──トシの病状が絶望的になり、親族が集められた後、死亡時刻午後8時30分(『新校本全集』「年譜」)の直前に、賢治は1時間程度?(午後6時頃まで)外出をしている事実が目につきます。この外出は、『国柱会』の教職・長滝智大の「花巻通過に際して、賢治は関徳弥とともに花巻駅頭へ出て、出迎え、面会する。」関は、長滝に同道して午後7時盛岡の村井方へ至り「三人法談する」(同「年譜」)というものです。死んでゆく現実の妹自身よりも、賢治にとっては、信仰のほうがだいじだった、信仰によって妹の死を支配することに、より関心があったのではないか──このような意地の悪い批判さえ私の頭には浮かぶのです。

さて、この“死の確信”は、栗谷川氏によれば、「あめゆじゆとてちてけんじや」という言葉のリフレインによって強められ、「わたくし」はそれに急きたてられて、妹の死という“運命”に直面して行ったとされます:

「このスケッチを特徴づけるのは、言うまでもなく、『(あめゆじゆとてちてけんじや)』というとし子の言葉のリフレインである。これは『今日のうち』という確信の主テーマと微妙にからみ合う、低音で奏でられる二次テーマとして進展し、『Ora Orade ‥‥』という転調を経て、『ほんたうに』で両テーマが融合するかのように響いている。言わばこの言葉の低音性の静かで単調な繰り返しは、ある動かし難い力を持って、しだいに否応なく死の確信を認めざるを得なくなるように響いてくる。」
(『見者の文学』,pp.226-227.)
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