ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
16ページ/73ページ




6.1.15


つまり、「永訣の朝」の最初の語り出しから、読者をふしぎな力で捕らえる“奇怪さ”とは、

作者は、未来の妹の死について理由不明の“確信”を抱きつつ、それを悲しみ、その確実さに動揺さえしているという奇怪さであり、3篇の作品の最後に至るまで、妹の「死はけっして訪れない」という異様さなのです。

すなわち、これら三部作が、いつまでたっても“未来形の挽歌”でありつづける奇怪さなのです。

この“未来形の挽歌”という“奇怪”な作品構造は、別の言い方をすれば、次のようにも言えるでしょう:

臨終の妹に対して、「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」と沈黙の声で呼びかけ、妹の“死”という・まるで運命のように確実な未来に対して、陰惨に葛藤し、動揺さえしている「わたくし」の背後に、
そうした“未来”を、確実な運命として定め、この詩の世界を護持している作者賢治の〈もうひとりの人格〉がいるのだ──と考えることもできると思います。

6.1.12 の(注)に記した斎藤宗次郎は、

「青年は彼女の求むる──切に求むる/一椀の雪を与えて〔…〕」

という感想を日記に書いています。つまり、作中の「わたくし」は、斎藤の目の前でこの詩を朗読している作者賢治とは別人格の「青年」として認識されているのです。

この・作中の青年「わたくし」の背後にいる〈もうひとりの人格〉としての作者は、この「永訣の朝」ではまだ、はっきりと読者の前に姿を現していはいません。

〈もうひとりの人格〉としての作者が、読者の目にも見えるようになるのは、第3作「無声慟哭」においてです。

“未来形の挽歌”と言うべき3篇の内容の異様さについて、栗谷川氏は、さらに詳細に、つぎのように論じています:

「賢治の、妹の死の確信は、誰の目にも明らかな絶望的な病状からくる予感や危惧などではない。そのような場合の不安や怖れ、悲しみといったものは、微塵も見られない。悲しみはあっても、それは動かしがたい運命を直視せざるを得ない悲しみであって、
〔肉親の死に際して通常の人々が抱くような──ギトン注〕〔…〕怖れに充ちた悲しみではない。またたとえ医者の宣告があったとしても、そのような時、誰もが抱くはかない望みの影すら、疑惑の影すら全く見られない。」

「『無声慟哭』
〔三部作──ギトン注〕全篇に流れる調子には、未来の運命への確信などという言葉が、およそ陳腐に聞こえるほど、確然たる調子に充ちている。〔…〕死がすでに訪れてしまったかのような錯覚を抱かせるほどである。だが死は決して訪れない。『無声慟哭』三篇の最後まで、彼は未来の死の確信という揺るぎない基盤の上に立って死の悲しみを詠う。」(『見者の文学』,p.224.)

「『永訣の朝』においては、その死の確信は三度ほど繰り返されて、さらに『ほんたうに』とストレスが加えられる〔…〕死の確信そのものを詠っているのである。」
(同,p.226.)
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ