ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.1.14


梅原猛氏の解説によりますと:

「仏教の因縁の教義によれば、すべての生きとし生けるものはいつかは父母兄弟であって、今生の父母のみ特別視するのは仏教の教義に反するというのである。ここに私は、家族的エゴイズムばかりか、人間的エゴイズムをすら越えた仏教の意味があると思う。〔…〕
 〔…〕おまえは父母を救済するほどりっぱな人間であるか、おまえが救われたら自然に父母が救われるのではないかと親鸞はいっているのではないかと思う。」


☆(注) 梅原猛・訳注『歎異抄』,2000,講談社学術文庫,pp.37-40.

梅原氏の解説のように、浄土真宗での解釈の力点は“他力”にあるようで、父母兄弟を救えるなどと思い上がるな、衆生を救えるなどとうぬぼれるな、まず自分が仏にすがって、救われる人間になりなさい、ということのようです。しかし、これを、上の『歎異抄』の字義どおりに受け取れば、“わが父母、わが兄弟ばかりではなく、すべての生きとし生けるものをたすけなければならない”という意味に読めるでしょう。賢治は、そのように理解したのではないでしょうか?

これが、浄土真宗でどの程度一般的に教えられている考え方なのかは、信仰のない私には解りませんが、賢治の父・宮澤政次郎氏を中心とする花巻仏教会の人々は、『歎異抄』の発掘・普及に功績のあった真宗“改革派”(折角常観、清沢満之、暁烏敏ら)に深く傾倒し、賢治も小学生時から暁烏らを講師とする夏期仏教講習会に参加していますから★、この部分の講釈も、幼時から賢治の脳裏には焼きついていたと思われるのです。

★(注) 栗原敦「序景 宮沢賢治」,in:同『宮沢賢治 透明な軌道の上から』,1992,新宿書房,pp.8-51.宮澤政次郎らが主催した花巻の夏期仏教講習会は、第6回(1904年)歎異抄講話(講師:折角常観)、第8回(1906年)歎異抄について(講師:暁烏敏)などの演題で、毎年10日程度の合宿として行われたが、第8回(1906年)以後は、父・政次郎とともに賢治(1906年:10歳)も参加したことが資料で確認できる:op.cit.,pp.13,29,32-33;堀尾青史『宮澤賢治年譜』,1991,筑摩書房,.pp.322-323.

さて、以上のように見てくると、
「永訣の朝」も含めてこの“三部作”は、高村光太郎の言うように、作者が妹臨終の日に、その偽りのない心情をサラサラと書き留めたようなものではなくて、
作者は、相当の葛藤と思案のすえに、おそらく作品日付の妹死亡日から相当たってから、相克しあう心情を整理し、荒れ狂う気持ちを鎮めるようにして、搾り出した作品だったのではないでしょうか?‥

こう考えますと、“三部作”とりわけ「永訣の朝」には、“浄らかな涙”の一言には収まりきらない幾多の問題が孕まれているように思われます。


 3 栗谷川評に沿って

そこで、次に、栗谷川虹氏の議論を参照しながら、そうした問題点を洗ってみたいと思います:

. 春と修羅・初版本

「けふのうちに
 とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」

この出だしの呼びかけについて、栗谷川氏は、つぎのように、その異様な性格を明らかにしています:

「賢治は、〔…〕いきなり常識では到底理解できないような、奇怪な確信から始める」

「我々は賢治が、こよなく愛した妹を亡くしたことを知っている。だが知り過ぎていないだろうか。〔…〕この知識を欠いたならば、我々は即座に奇怪な、理解不可能の事実に直面しなければならなくなる。」

「賢治は、妹の死以前に既にその死を確実に知っていた。〔…〕まるでどこかへの予定の出立ででもあるかのように、それを知っていることが極く当然であるかのように語り始める。」

「このように語り出された『永訣の朝』に、『最高の詩』『挽歌の傑作』という評価を下すには我々に
〔“作者は、愛する妹を亡くした悲しみを詠っている”という──ギトン注〕全く恣意的な先入観がなければならない。〔…〕いうまでもなく挽歌とは、死者を悼む歌であるが、〔…〕このスケッチにおいて、死はけっして訪れないのである。〔…〕賢治は、妹を亡くした悲しみを詠っているのではない。今日のうちに妹を亡くす悲しみを詠っているのである。」

「『無声慟哭』
〔「永訣の朝」ほかの三部作のこと──ギトン注〕は、未来の死の確信の上に立って、そのとりかえしのつかない運命を嘆く、未来形の挽歌としか言いようのないものなのである。」

☆(注) 栗谷川虹『宮沢賢治 見者の文学』,1983,洋々社,pp.219-221.
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