ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.1.11


賢治は、雪は真っ白で「浄らか」で「美しい」‥と言っているのではありません。
あの暗い陰惨な空から落ちてきたのに、こんなに白くてきれいな雪なのだ、と驚いているのです:

. 春と修羅・初版本

47あんなおそろしいみだれたそらから
48このうつくしい雪がきたのだ

つまり、みぞれを降らす曇空のような「わたくし」の陰惨な心情が、雪の混じりけない白さを発見して、心に明かりを灯されたように感じたのです‥

のちほど、また詳しく論じますが、

30わたくしはそのうへにあぶなくたち
31雪と水とのまつしろな二相系をたもち

の部分も、二相に分かれて葛藤し、その二相の間でどうにか平衡を保っている「わたくし」の不安定な心境を表現していると思います。

 

. 春と修羅・初版本
52おまへがたべるこのふたわんのゆきに
53わたくしはいまこころからいのる
54どうかこれが天上のアイスクリームになつて
55おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
56わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

↑この最後の部分は、どうでしょうか?
この直前までは、もっぱら作者と、作者に「みぞれ取って来て」と頼んだ妹のことが書かれていました。臨終の枕元に集まっているはずの他の家族のことさえ書かれていません。もっぱら“ふたりだけの世界”として描かれていたのです。

ところが、最後の3行(54-56)で、いきなり作者は「みんな」と言い、「みんな」のために祈るのです。
ふつうに読んでいると通り過ごしてしまうかもしれませんが、ここには、技巧がないでしょうか?

あるいは、作者のなまの“心情”ではなく、むしろ何らかの宗教倫理に要請されて、「おまへ」だけでなく「みんな」の幸いを願っているのではないでしょうか?☆

☆(注) この「みんな」を、取ってつけたように感じるのは、内容的な矛盾にもよります。この文脈で「みんな」と言っても、それは、地上で生きている「みんな」、あるいは不幸にして地獄などで苦しんでいる「みんな」は含まれません。あくまでも「天上」にいる「みんな」──すでに極楽往生した人々──にしかなりません。極楽往生した人の幸福を祈ることが、「わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」ほどの大事なのかと、作者の宗教意識の真剣さを疑わざるをえないのです。
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