ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.1.9


ここで光太郎が論評の対象にしているのは、「永訣の朝」「松の針」の2篇で、「ああいぃ さっぱりした まるで林のながさ来たよだ」は、「松の針」からの引用です:

光太郎の評価の柱は、「まことの籠つた、うつくしい詩」「自然と浄らかな涙に洗はれる気がした」という直感にあります。すなわち、「内面から湧き出してくる言葉以外に何の附加物もない。」「どんな巧妙な表現も此所では極めてあたりまへでしかない。少しも巧妙な顔をしてゐない」と評した上で、「此の事は詩の極致に属する」と断じているのです。
つまり、一言でいえば、技巧が見えず、率直である、真情が吐露されている、ということだと思います。たとえ、「巧妙な表現」があっても、少しの無理もなく収まっていて、技巧に見えない、ということでしょう。
それは、「心象の湧き起るままに其を言葉にした。」という、↑後段の・賢治詩全体に対する評価にも結びついて行きます。

そして、それと重要な関係にあるのですが、光太郎は、「うつくしい詩」「浄らかな涙」ということを、強調します。つまり、技巧がなく、率直であるがゆえに、浄らかで、うつくしい。光太郎は、そう言いたいのだと思います。

しかし、それは、ほんとうでしょうか?‥私は、高村光太郎自身が故意に嘘をついている点もあるように感じます。なぜなら、彼はここで、“三部作”のうち、「無声慟哭」を除外して、他の2作だけを論じているからです。

作者の心中の率直な吐露、ということで言えば、“三部作”の中で、作品「無声慟哭」がもっとも率直に正直に、作者のあらゆる迷いや葛藤をも赤裸々に告白していると思うのです。
作者自身が、この章の題名を「無声慟哭」としているのも、“三部作”の中で第3作「無声慟哭」が、もっともありのままに自身の気持ちを表現しえた、それゆえに“三部作”の中心たるべき作品と、自負したからではないでしょうか?

「無声慟哭」から、少し引用しておきますと:

. 春と修羅・初版本

01こんなにみんなにみまもられながら
02おまへはまだここでくるしまなければならないか
03ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ
04また純粹やちいさな徳性のかずをうしなひ
05わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
06おまへはじぶんにさだめられたみちを
07ひとりさびしく往かうとするか

 


つまり、妹の臨終に臨んだ作者の率直な気持ちとは、↑このような暗い葛藤を含んでいた‥いや、3篇の詩を見る限りでは、“浄らかな涙”よりも、闇を這い回るような暗い葛藤が、優位を占めていたとさえ思われるのです。

暗い葛藤を率直に吐露すれば、暗い詩句にならざるをえません。「無声慟哭」は、とりわけ、そのような暗い詩句を多く含んでいます。

そのような作品「無声慟哭」を除外し、技巧のない率直な真情の吐露だ→それゆえに「うつくしい詩」「浄らかな涙」だ☆──という高村の評価には矛盾があり、ウソがあります。

☆(注) 「浄らか」という言葉にも注意が必要です。というのは、作者・宮沢賢治は、この“三部作”では、「きよらか」「きよい」という語を使用していないからです(ただし、「聖[きよ]い」は「永訣の朝」に1回だけ)。批評の中で、これらの表現を使うのは、慎重でなければなりません。
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