ゆらぐ蜉蝣文字


第5章 東岩手火山
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5.5.13


そこで、もういちど最初から通読してみましょうか。。。

こんどは、行番号もはずしてみます:

   マサニエロ

 城のすすきの波の上には
 伊太利亞製の空間がある
 そこで烏の群が踊る
 白雲母のくもの幾きれ
   (濠と橄欖(かんらん)天蚕絨(びらうど)、杉)
 ぐみの木かそんなにひかつてゆするもの
 七つの銀のすすきの穂
 (お城の下の桐畑でも、ゆれてゐるゆれて ゐる、桐が)
 赤い蓼の花もうごく
 すヾめ すヾめ
 ゆつくり杉に飛んで稲にはいる
 そこはどての陰で氣流もないので
 そんなにゆつくり飛べるのだ
  (なんだか風と悲しさのために胸がつまる)
 ひとの名前をなんべんも
 風のなかで操り返してさしつかえないか
  (もうみんな鍬や縄をもち
   崖をおりてきていヽころだ)
 いまは鳥のないしづかなそらに
 またからすが横からはいる
 屋根は矩形で傾斜白くひかり
 こどもがふたりかけて行く
 羽織をかざしてかける日本の子供ら
 こんどは茶いろの雀どもの抛物線
 金屬製の桑のこつちを
 もひとりこどもがゆつくり行く
 蘆の穂は赤い赤い
  (ロシヤだよ、チエホフだよ)
 はこやなぎ しつかりゆれろゆれろ
  (ロシヤだよ ロシヤだよ)
 烏がもいちど飛びあがる
 稀硫酸の中の亞鉛屑は烏のむれ
 お城の上のそらはこんどは支那のそら
 烏三疋杉をすべり
 四疋になつて旋轉する

ところで、この詩集の成立事情の一つとして、作者が保阪嘉内という同性の恋人を持っていたこと、その波乱の一部始終を見てきた私たちには、この「マサニエロ」にも、“保阪の影”が見えてしまいます☆

☆(注) 「マサニエロ」という題名も、“まさにエロ”と読めます。賢治が「エロ」という言葉を“エロティック、性愛”の意味で使っていたことは、森氏の伝える1931年の賢治の発言に、「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。」とあるのでも解ります:森荘已池『宮沢賢治の肖像』,1974,津軽書房,pp.174-177.

それも、ひとつの読み方として許されるはず──牽強付会とは言えない根拠があります:

宮澤賢治は、親しい友人にも、保阪との関係は隠していました。
賢治のもっとも親しい詩友といってよい森荘已池氏も、保阪について、“盛岡高等農林時代の友人で、演劇の好きな人”だとしか聞いていなかったと言います。

そして、「マサニエロ」の最初の“場面”──「伊太利亞製の空間」と「そこで烏の群が踊る」レヴューは、かつて保阪とともに観劇した★浅草オペラの舞台です。

★(注) ただ、少し妙に思うのは、多数現存する賢治の保阪宛て書簡の中には、オペラや演劇について言及した箇所がほとんど無いことです。保阪のほうのお気に入りであった演劇については、もっぱら、保阪の賢治宛て書簡(←これは、残念ながら1通も公表されていません)に書かれていたのかもしれません。保阪が高等農林入学時(20歳)に書いた戯曲は公表されており、これを読んでも、彼が演劇に対して、相当の選好と、ある程度の才能を持っていたことはうかがわれます。

たしかに、嘉内と賢治の体験した浅草オペラ、和製オペラは、単なる娯楽ではありませんでしたし◇、一面において、《国柱会》などは、これを宣伝布教の手段として用いていました。すなわち、一面においてそれは、《政治的テクスト》でもあったのです。

◇(注) 森荘已池氏は、1924年ころ、賢治に盛岡劇場に連れられて行って「曽我廼家系統の田舎回り劇団の演劇を、いっしょにみせられた」際、賢治が芝居を見るのは単なる娯楽のためではなく、喜劇の手法を学ぶためと知って驚いたと回想しています。森荘已池『宮沢賢治の肖像』,p.14. 「曽我廼家(そがのや)」は、1904年、曽我廼家五郎・十郎が旗揚げした日本最初の喜劇劇団。

つぎに、「そんなにひかつて」悲しげに揺れる「ぐみの木」が、保阪が憧れてやまなかったロシアの大地に、作者の心を引っ張っていこうとします。

作者の眼は、「烏」のレヴューを離れ、故郷の稲田の稔りに惹かれて無邪気に飛行するスズメたちに注がれます。
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