ゆらぐ蜉蝣文字
□第5章 東岩手火山
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5.5.9
「やにわに風が吹きつけた。あまりに強かったので、エゴールシカは危うく包みと茣蓙とを持って行かれそうになった。〔‥‥〕風は唸りを上げて曠野を駆け出し、むちゃくちゃに渦を巻き、雷鳴も車輪の軋みも掻き消すほどのごうっと言う音を、草を相手に巻き起こした。風は黒い雨雲から吹いて来て、砂塵と、雨の匂い、湿った大地の匂いとをもたらした。〔‥‥〕
『パンテレーイ!』と誰かが前のほうで叫んだ。『あ……あ……だぞう…』
『聞こえ──ねえよう!』と、パンテレイが大声で、歌うような調子で答えた。
『あ……あ……だぞう!あれ……だよう!』
〔‥‥〕
空の黒い部分がぽっかりと口を開け、青白い火を吐いた。すぐまた雷鳴が轟いた。〔‥‥〕
やにわに頭の真上で、すさまじい、鼓膜も破れんばかりの大音響を立てて空が張り裂けた。〔‥‥〕目が思わず開(あ)いて、指や、ぐっしょり濡れた袖口や、茣蓙からそそぐ水の流れの上に、下の地面に、五、六度も目も眩まんばかりの閃光が見えた。〔‥‥〕
『ぱりっ!ぱり!ぱり!』頭上を走り抜け、荷馬車の上に落下して炸裂する。『どしーん!』
目がまた思わず開(あ)いて、エゴールシカは新たな危険を見つけた。荷馬車の後ろから、三人の雲突くような巨人たちが長い槍を持ってやって来るのだ。」(『曠野』七)
しかし、このような風景と天候の描写は、この小説では、あくまでも伏線にすぎません。
突然に母親の許から引き離され、粗暴な荷馬車引きの若者たちに混じって旅をする九歳のエゴールシカにとって、
出会う人々はみな、ゆがんだ鏡に映ったようにデフォルメされて現れます。…しかし、それは、なまの人間の真実の姿にほかならないのです。
たとえば、↑上の引用部分にある「三人の雲突くような巨人たち」は、じつは干草用のフォークを担いだ百姓で、荷馬車隊を迎えるために集まってきた村人なのでした。
このように、チェーホフの描くロシアの大地は、人間に‘飼いならされ’ていない原初の自然の息吹に満ちています。
そこに描かれた人間たちは、剥き出しの現実そのものであり、
農民的な素朴な心性の奥に、おどろおどろしいものを見え隠れさせている──少年の目には、人間の恐るべき“なまの”姿が映し出されているのです。
28 (ロシヤだよ、チエホフだよ)
という宮沢賢治の詩句は、けっして情緒豊かなメルヘンだけを指してはいないのだと、ギトンは思います。
なぜなら、彼は、
29はこやなぎ しつかりゆれろゆれろ
とも書いているからです。
“しっかりと揺れる”とは、どんな意味でしょうか?‥
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