ゆらぐ蜉蝣文字


第5章 東岩手火山
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5.4.2


つまり、賢治としては「正確に」スケッチしたつもりでも、犬をよく知っている者から見れば、正確な観察とは言いがたいのです。

むしろ、この詩は、もともとから現場スケッチではなくて、現場から離れた場所で、机に向かって、犬が吠えている場面を想像して書いたようにさえ思われるのです。

現場スケッチでないとすると、
なぜこのような想像をしたのか?‥‥たとえば、何かの比喩なのか?‥‥比喩ではないとしても、犬の行動によって、何かを表現したいのか?‥‥といったことが問題になります。

前nで引用した先を見ますと:

12わたくしの歩きかたは不正でない
13それは犬の中の狼のキメラがこわいのと
14もひとつはさしつかえないため

つまり、作者には、吠えられるような理由はない、やましいことは何もないんだと言っています。

こせこせ歩いたり、走ったりすると、犬は吠える──と、よく言います。
そのたぐいで、賢治は、挙動不審な歩き方だと犬は吠えると思っていたようです。



そこで、戻って犬の行動の描写を見ると:

04頭を下げることは犬の常套だ
05尾をふることはこわくない
06それだのに
07なぜさう本氣に吠えるのだ
   〔…〕
10うしろへまはつてうなつてゐる

「頭を下げる」「尾をふる」は、人間の行動ならば、へつらいです。作者の前では、へつらう。そして、後ろへ回ると「うなつてゐる」──歯をむき出し、遠くなれば吠えるのです。

作者に対して警戒心を持ち、警戒心からくる諂いを見せ、隙があれば攻撃しようとして吠え立てます。

しかも「二疋」‥‥ひとりでは何もできない輩です。

──これは、賢治がその後の生涯にわたって格闘せざるを得なかったところのものではなかったでしょうか☆

☆(注) 堀籠文之進氏は、賢治を追悼する文章で、この作品『犬』の全文を掲げています。その内容については、堀籠氏は何も説明を書いていませんが、農学校教師時代の賢治と親しく付き合い、その心情の綾を知悉していた堀籠氏は、この詩にこめられた作者の複雑な思いを理解できたのではないでしょうか。堀籠文之進「宮沢さんを憶ふ」,in:『新校本全集』第16巻(下)〔補遺・伝記資料篇〕,pp.413-416.

前作の「東岩手火山」は、この詩で、はじめて《他者》が現れたと、栗谷川虹氏によって評価されていました。

しかし、「犬」に現れているのは、《他者》というよりも、《ひと》です。
つまり、作者と一対一で対峙する・もうひとりの主体ではなくして、‥世間一般、集団の中に埋没した匿名の主体なき《ひと》です。

もちろん、この詩全体を、比喩としての犬に仮託した寓話(たとえばなし)と考えるならば、まちがえでしょう。
3行目に:

03(夜明けのひのきは心象のそら)

とあるからです。また、あとのほうで:

17いつもあるくのになぜ吠えるのだ

とあります。
おそらく、夜明けに、いつもの通り道を歩いていて、ふだんはおとなしい2匹の犬が、なにかの原因で、昂奮して出て来て、吠えられたことがあったのでしょう。
その体験を思い返して創作したものと思われます。
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