ゆらぐ蜉蝣文字


第5章 東岩手火山
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5.3.21


《御室》の盛り上がりの白色は、センニンソウでもカオリンでもなさそうなのに、作者がこれらを持ち出したのは、なぜでしょうか?
──ここには、すでに十数回来ている賢治が、間違えるとは思えません‥

. 画像ファイル:センニンソウ、カオリン
もういちど↑画像ファイルを見てほしいのですが、ギトンは色だと思います。
白色にも、いろいろな色調があると思いますが、センニンソウとカオリンは、色調が似ていませんか?‥目が覚めるような白色です。すこしクリーム色が入っているかもしれません。
この色が、夜の闇に浮き上がる《御室》の白い輝きを思わせるのではないでしょうか?

そして、センニンソウの花は、細長い沢山のオシベを出しているので、離れて見ると、白い粉を吹いたような感じに見えます。この質感も、《御室》の白さに似ているのではないでしょうか?

つまり、

. 春と修羅・初版本

129雪でなく、仙人草のくさむらなのだ
130さうでなければ高陵土(カオリンゲル)

の部分で、作者の意識は、《見者の眼》のほうへ傾いています。
《御室》の火山礫の色の比喩としてセンニンソウやカオリンを持ち出すのではなく、センニンソウやカオリンそのものがそこにあるかのように“透視”してゆく・賢治のいつものヴュー(vue)です。

125行目で、「夢の火口原」と言っているのも、神秘を見ていることを示します。

ただ、夜の闇に浮かぶ白い「火山礫‥夜の沈澱」(2行目)の神秘さは、作者のみならず、生徒たちの眼にも映じているはずです。賢治だけが見ている“異常感覚”の現象ではないのです。

雪かと見まがい、近くへ行って“雪”が見えなくなって、とまどっている──「困つたやうに返事してゐる」(128行目)──生徒たちとともに、作者もまた、錯誤しつつ“神秘”に分け入ってゆくのです。。。

さて、この部分を、【新聞発表形】で見てみますと:

125三つの提灯は夢の火口原の
126白いものまで降りてゐる
127『雪ですか、雪ぢやないでせう』
128『いゝえ』(困つたやうに返事してゐる)
129雪ぢゃないのだ、仙人草のくさだらうか
130さうでなければ高陵土(カオリン)だ

こちらのほうが、生徒たちと同じ気持ちになって、不可思議にとらえられてゆく感じが、よく現れています。

「白いもの」という言い方にも、注意を要します。

「うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり」
(歌稿B #79)

「草地の黄金[きん]をすぎてくるもの
 ことなくひとのかたちのもの
(春と修羅)

「古ぼけて黒くえぐるもの
   〔…〕
 きたなくしろく澱むもの
(岩手山)

「あめの稲田の中を行くもの
 海坊主林のはうへ急ぐもの
 雲と山との陰気のなかへ歩くもの
(たび人)

「サウイフモノ
 ワタシハナリタイ」
(雨ニモマケズ)

「『もの』という言葉が多用されているが、〔…〕賢治は『もの』によって、我々が普通にいう『物』そのものを表していない。『もの』とは、実体ではない。現象なのである。あるいは、移り変わる(明滅する)現象こそ、賢治が捉えた万物の実体であったといえる。〔…〕賢治の捉える自然は、『明滅する』心象の中で、絶えず移り変わり、一瞬たりとも安定した姿をもたない現象であった。
   〔…〕
 『もの』という語の多用は、そのうつろいゆらめく存在を、現象のままに捉えようとする努力にほかならなかった。『たび人』は人物ではない。『行くもの』であり、『急ぐもの』であり、『歩くもの』なのである。」

「スケッチの人物からは、現実の影は全く拭い去られて」
いる☆

☆(注) 栗谷川虹『宮澤賢治 見者の文学』,1983,洋々社,p.178-179.

浮き出たように白く光る「夜の沈澱」の盛り上がりは、固定した実体とは見られず、
夜の山頂で、不可思議にとらえられた作者らの眼には、雪にも、仙人草のくさむらにも、白陶土にも、火山礫にもなる“もの”として現れるのです。
.
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