ゆらぐ蜉蝣文字


第5章 東岩手火山
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《Mg》 衣装をすてて観衆の中へ



【52】 銅 線





5.1.1


じつは、この「銅線」と、次の作品「滝澤野」は、【初版本】の第4章に収録されていて、第5章は、作品「東岩手火山」から始まっています。

しかし、↑この3作は、農学校の生徒たちを連れて岩手山に登った際のスケッチでして、ひとまとまりの連作なのです。
そこで、この《蜉蝣文字》では、「銅線」と「滝澤野」を第5章の初めに移しました。

「銅線」と「滝澤野」は、9月17日(日曜)付で、「銅線」は、花巻からの汽車の車窓から見た風景。「滝澤野」は、滝沢駅で下車して、徒歩で岩手山へ向かう途中のスケッチ。時間は午後から夕方です。
そして、「東岩手火山」は、翌18日(月曜)付で、夜明け前の岩手山頂火口です。

日付が日曜・月曜なのは、どうしてか分かりません。
18日(月曜)は祝祭日ではありませんが、学校は臨時の休業だったのか?、“不良教師”宮澤が生徒たちと学校をサボったのか?、それとも、じっさいの山行は16-17日で、何かの理由で作品日付がずれているのか? 。。。残念ながら確認できる資料☆がないのです。

☆(注) 参加した生徒・藤原健太郎らの戦後の回想談では、16日(土曜)から17日(日曜)にかけて登ったとなっていますが、のちほど「東岩手火山」で述べるように、この聞き書き部分(読売新聞社盛岡支局『啄木 賢治 光太郎──201人の証言』,1976,同局,p.105)は信用性がないので、日付のずれを確定できる資料ではないと考えます。

しかし、1924年の花巻農学校『校友会々報』には6月21日(土)に「宮沢教諭統導、岩手登山決行」の行事記録があります★。残念ながら1922,23年については、このような公式記録はないのですが、

すでに22年段階から、運動部の遠征行のような準学校行事の扱いで、月曜にかけて実施されたのではないかと思います。
当時の畠山栄一郎校長(宮澤賢治に強く勧めて教諭に就職させた人)は、豪放磊落で懐の広い性格だったといいますから、これは十分にありうることです。

★(注) 『新校本全集』第16巻(下)「補遺・伝記資料篇」,p.101.

. 春と修羅・初版本

  銅 線

01おい、銅線をつかつたな
02とんぼのからだの銅線をつかひ出したな
03 はんのき、はんのき
04 交錯光亂轉(くわうらんてん)
05氣圏日本では
06たうたう電線に銅をつかひ出した
07(光るものは碍子
08 過ぎて行くものは赤い萓の穗)

作品「東岩手火山」の1日前の日付です。

宮澤賢治が岩手山に登るときは、前日の夕方から登って、夜間か明け方に山頂に到着し、ご来光(日の出)を拝むのが習慣でした。

17日は生徒たちを連れて東北本線滝澤駅で下車、滝沢登山道(岩手山神社表参道)から頂上を目指したはずです。
したがって、「銅線」は、花巻から滝澤へ向かう列車の中、「滝澤野」は、滝沢登山道の途中でのスケッチと思われます:地図:一本木野 地図(2枚):柳沢
この作品「銅線」は、6行目の「電線に銅をつかひ出した」という驚きの表明が、詩句の中心となっていて、これは、私たちには不可解な感じを与えます。なぜなら、私たちの常識では、電線はすべて銅を使うもので、銅線でない電線などは考えられないからです。

しかし、昔からそうではなかったのです。
これを解明されたのは、加島篤氏の『童話「月夜のでんしんばしら」の工学的考察』です:童話「月夜のでんしんばしら」の工学的考察

加島氏によりますと、電信が日本で始まった1869年以来、電信線には、鉄線(はりがね)が使われていました。
硬銅線が初めて通信用に使用されたのは1890年で、その後、銅の電信線が増えましたが、1916年末時点でも、日本の電信線総延長(約17万2000km)の92.4%が鉄線だったのです!!

そして、加島氏によれば、ちょうどこの 1921年ころ、東北では、通信線を鉄線から銅線に付け換える工事が進行していたと推測されます。
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