ゆらぐ蜉蝣文字


第5章 東岩手火山
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5.3.9


しかし、第2章の「蠕虫舞手」あたりから、“おぼろな夢”といった言い方が現れ──「真空溶媒」では「奇術(ツリツク)」と言っています──、第3章「小岩井農場」では、「幻想」という言葉が何度も使われます:

17《幻想が向ふから迫ってくるときは
18 もうにんげんの壊れるときだ》 
(パート9)

これらは、分裂した意識の一方が、他方に対して投げつける言葉として出現しています。

そして、いま、「東岩手火山」では、現実意識をも堅持し、現実にもしっかりと足を踏みしめようとする決意のもとに、「幻想」という表現を用いているのです☆

☆(注) 栗谷川虹『宮澤賢治 見者の文学』,pp.196f.

しかし、作者は、《異世界》の《見者》であることをやめたわけではありません。「幻想」とは、一方の意識の用語であることを明確に意識し、その明晰な意識のもとに、《見者》の超越した「そのとほり」の視覚を語り、それを「幻想」という此岸の言葉でも述べるのです。

《見えること(vue)》は「もうにんげんの壊れるときだ」──という危惧と恐怖にみちた分裂心理を、作者は、いま乗り越えようとしています。

. 春と修羅・初版本

024黒い絶頂の右肩と
025そのときのまつ赤な太陽

と言っていますが、これはもちろん、実際に日が昇る方角とはちがいます。日が昇るのは頂上の肩付近ではありません。

いま、9月18日で、ほぼ秋分ですから、太陽は真東から昇るはずです★。そうすると、《御鉢》の上をずっと歩いて行って、火口の東端まで行って眺めるのが、日の出を拝むには良いと思われます。

28《いまなん時です
29三時四十分?
30ちやうど一時間
31いや四十分ありますから
32寒いひとは提灯でも持つて
33この岩のかげに居てください》

「ちやうど一時間/いや四十分ありますから」と言っているのは、日の出までの時間ではなく、日の出の1時間前(午前4時20分)★、つまり薄明が始まる時刻までの時間だと思います。

★(注) 盛岡市の2014年9月18日の日の出時刻は午前5時19分、日の出方位は 86.6°(90°が真東)です。

034 ああ、暗い雲の海だ
035《向ふの黒いのはたしかに早池蜂です
036線になつて浮きあがつてるのは北上山地です
037 うしろ?
038 あれですか、
039あれは雲です、柔らかさうですね、
040雲が駒ケ嶽に被さつたのです
041水蒸氣を含んだ風が
042駒ケ嶽にぶつつかつて
043上にあがり、
044あんなに雲になつたのです。
045鳥海山は見えないやうです、
046けれども
047夜が明けたら見えるかもしれませんよ》

34行目は作者の独白ですが、《見者》の眼が《異世界》へと延びて行くのを妨げるように、生徒たちが矢継ぎ早やに質問を投げかけるので、現実意識でそれに答えなければなりません。

「早池蜂」と「北上山地」は、東〜南東の方向。「駒ケ嶽」は南西で、東を向いている作者の「うしろ」です。「鳥海山」もやはり南西ですが、「駒ケ嶽」よりずっと遠くです。

それにしても、賢治は、

039あれは雲です、柔らかさうですね、
040雲が駒ケ嶽に被さつたのです

と言うだけでなく、

041水蒸氣を含んだ風が
042駒ケ嶽にぶつつかつて
043上にあがり、
044あんなに雲になつたのです。

などと、雲の出来る原因まで科学的に詳しく説明しなければ、気がすまないようです。

中学1〜2年にあたる子どもたちに対して、これではあまりにも、くどすぎないでしょうか?

散文『イギリス海岸』を見ますと、
この年8月の補習授業の放課後、北上川べりへ生徒たちと泳ぎに行った際にも、宮澤教諭は、このようなくだくだしい科学的説明をやっているのです。遊ぶために来た川っぷちで、まるで強迫観念にかられたように‥‥。

これは、いったいなぜなのでしょうか?
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