ゆらぐ蜉蝣文字


第5章 東岩手火山
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5.3.4


しかし、「小岩井農場」での作者は、依然として“二重の風景”を明晰に見通しつつも、作者自身が風景の中に消え入ってしまうのではなく、むしろ“自己”を取戻して生き生きと進んでいるように見えます。
それは、なぜなのでしょうか?

栗谷川氏によれば:

「社会の中ではなく、野原のような広いところでなら、賢治の意識は、自由に現実と異空間を彷徨うことができる。ところが現実社会では『いつもはゞけて』いなければならない。〔…〕即ち、飲食物が咽喉につかえるように、対人関係は、常にぎくしゃくとした感情のすれ違いに終止
[ママ]していたということであろうか。

 『心象』が賢治にとっていかに自然で正常であろうとも、他人にはこの異次元感覚は、異常あるいは狂気としか感じられないであろう。〔…〕この異常な現象が
〔賢治の──ギトン〕正常な理性の眼にはっきりと見えることは、どうやって説明するのか。〔…〕

 この異常を異常と認める理性が、現実社会における対人関係を支えていたはずである。従って、対人関係におけるぎくしゃくしたとりとめのなさは、異常な現象を知覚していたことにあるのではなく、〔…〕『春と修羅』の生活と、教師としての現実生活を、はっきりと区別することの不可能にあった。」
(op.cit.,pp.194-195)

つまり、休日の広い農場を、誰にも邪魔されず、話しかけられることもなく、好きなように歩いている状態では、作者の意識は、現実の農場の路と、異世界体験とを、どうにでも自由に往復できたわけです。

一方で、現実の道すじを判断し、農場作業の進行状況を見学して教材を得ようとする活動は、現実的な意識によって行なわれます。

しかし、それと同時に行なわれ、手もとのメモにつぎつぎと記録されてゆく“異世界”体験、すなわち《心象スケッチ》は、非現実的な世界を見透す“見者”の意識によって行なわれます。

この2つの意識がたがいに矛盾しないはずはなく、しばしば相克さえしているのですが、

そうした意識の分裂も、広い農場をひとりで歩いている状態ならば、誰にも気兼ねなく、どうにでも分裂相克と自己調整を繰り返してゆくことができるのです:

77 (空でひとむらの海綿白金(プラチナムスポンヂ)がちぎれる)
78それらかヾやく氷片の懸吊をふみ
79青らむ天のうつろのなかへ
80かたなのやうにつきすすみ
81すべて水いろの哀愁を焚き
82さびしい反照の偏光を截れ
83いま日を横ぎる黒雲は
84侏羅(じゆら)や白堊のまつくらな森林のなか
85爬蟲がけはしく歯を鳴らして飛ぶ
86その氾濫の水けむりからのぼつたのだ
87たれも見てゐないその地質時代の林の底を
88水は濁つてどんどんながれた
89いまこそおれはさびしくない
90たつたひとりで生きて行く
91こんなきままなたましひと
92たれがいつしよに行けやうか
93大びらにまつすぐに進んで
94それでいけないといふのなら
95田舎ふうのダブルカラなど引き裂いてしまへ
   〔…〕
111 わたくしは白い雑嚢をぶらぶらさげて
112 きままな林務官のやうに
113 五月のきんいろの外光のなかで
114 口笛をふき歩調をふんでわるいだらうか 
(パート4)

しかし、このような“きままな彷徨”を、教師としての社会生活の中で、同僚や生徒たちとの関係の中でも、繰り返すことはできないのです。。。
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