ゆらぐ蜉蝣文字
□第5章 東岩手火山
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5.3.3
作者は、なぜ、全体の4割近くを占める無味乾燥な会話文を、出したのでしょうか?‥
栗谷川虹氏が指摘されるように☆、前nの引用文では、作者は:
「生徒に、現実の日の出の話をしながら、賢治は『真赤な幻想の太陽』を見ている。」(p.197)
☆(注) 栗谷川虹『宮澤賢治 見者(ヴォワイヤン)の文学』,1983,洋々社。同『宮沢賢治 異界を見た人』,1998,角川文庫に改訂収録。以下の引用は『見者の文学』から。
18-23行目で、生徒たちに向かって:
. 春と修羅・初版本
「えゝ 太陽が出なくても
あかるくなつて
西岩手火山のはうの火口湖やなにか
見えるやうにさへなればいいんです
お日さまはあすこらへんで拝みます」
と説明しながら、同時に(25-27行目)作者の心眼は、暗黒の虚空に「まつ赤な太陽」を観ているのです:
24 黒い絶頂の右肩と
25 そのときのまつ赤な太陽
26 わたくしは見てゐる
27 あんまり真赤な幻想の太陽だ
作者は、自分の目に見えるものを偽って生徒に合わせているわけではありません。
現実の真っ暗な夜空──そこにはまだ太陽どころか、薄明の兆しも見えません──も、作者には見えているのです。
つまり、作者は、二重の意識を持ち、これらを混乱なく使い分けています。
「ここには、かつての理性と幻想という背反に揺れ動く心象の二重性はない。〔…〕幻想と理性という深い谷を控えた屋根の上に立つような不安定さもない。」(a.a.O.)
栗谷川氏の言う「心象の二重性」は、第1章、とくにその前半の諸篇には、顕著に現れていました:
「陥りくらむ天の椀から
黒い木の群落が延び
その枝はかなしくしげり
すべて二重の風景を
喪神の森の梢から
ひらめいてとびたつからす」(春と修羅)
しかし、この第1章の段階では、そのような“異世界”と現実世界の「二重の風景」を観る作者自身(“自己”“自我”“主体”と言っても同じことです)は、その風景の中の一点景となって、二つの世界のはざまをゆらゆらと揺れ動いているのでした。
「おれはひとりの修羅なのだ」
「ほんたうにおれが見えるのか」(春と修羅)
とは、その・ほとんど主体としての実質を失って‘影’のようになった作者の口から迸り出る叫びなのでした。
長詩「小岩井農場」の段階になると、作者は、現実性のある“自己”の身体と継続性ある心を取戻して、現実の農場の道路を、しっかりと踏みしめて進んでいるように見えます‥
だからといって、作者は“異界”を見なくなったわけではありません。現実の農場を歩き、野原に刻印された季節と作業の継起を見守りながら、作者の心眼の前には、“異世界”のさまざまな像が、つぎつぎに現れては消えていきます。「パート1」の有名な
「すみやかなすみやかな万法流転のなかに
小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
いかにも確かに継起するといふことが
どんなに新鮮な奇蹟だらう」
という一節も、まだ農場に入る前の・網張街道合流点の手前で、早くも作者の心眼に現れた農場の《心象》風景なのです。
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