ゆらぐ蜉蝣文字


第5章 東岩手火山
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5.3.2


つぎに、この作品「東岩手火山」の発表経緯に触れておきたいと思います:

「東岩手火山」は、作品日付の翌年1923年4月8日付『岩手毎日新聞』に「心象スケッチ外輪山」という題名で、最初に掲載されました。

これは、『春と修羅』【初版本】の出版(1924年4月)よりも前でして、宮沢賢治の作品が公器に掲載されたのは、これが初めてでした★

★(注) これより前、1921年の家出上京中に、雑誌『愛国婦人』に短い童謡『あまの川』、つづいて童話『雪渡り』が掲載されています。しかし、この雑誌は《愛国婦人会》という会員制組織の機関紙でした。賢治は、母親が会員だったので、懸賞に応募して掲載されたのです。したがって、一般読者向けの新聞・雑誌への掲載は、『岩手毎日新聞』が最初でした。なお、『岩手毎日新聞』には、4月8日付に「心象スケッチ外輪山」と童話『やまなし』、4月15日付には『氷河鼠の毛皮』、5月11-23日付に『シグナルとシグナレス』が連載されています。

したがって、作者としても、この作品にはそれだけの自信を持っていたと思われるのです。

「心象スケッチ外輪山」という掲載題名を見ても、賢治は、この時点(1923年4月)までに、《心象スケッチ》という方法を自覚するに至っていたことが分かります。

しかし、掲載した側の新聞編集者や読者に、この作品が理解されていたかというと、ひじょうに疑問です。

というのは、新聞掲載形では、編集者が勝手につけたと思われるルビ(振りがな)が、多数振られているのですが、↓このように、まったくデタラメと言ってもよいルビなのです:

 漢字 新聞掲載形ルビ 【初版本】ルビ

 後夜  のちよ    ごや
 外輪山 そとわやま  ぐわいりんざん
 蠍   かつ     [さそり]*
 雲平線 くもへいせん うんぴやうせん
 御室  ごむろ    おむろ
 月明  つきあ    [つきあかり]*
 歩ぐ  あゆぐ    あるぐ
 
* [ ]は、ルビなし。

そこで、内容に入っていきますが、最初に冒頭の部分をざっとながめていただこうと思います:

. 春と修羅・初版本

01 月は水銀、後夜の喪主
02 火山礫は夜の沈澱
03 火口の巨きなえぐりを見ては
04 たれもみんな愕くはづだ
05  (風としづけさ)
06 いま漂着する薬師外輪山
07 頂上の石標もある
08   (月光は水銀、月光は水銀)
09《こんなことはじつにまれです
10向ふの黒い山……つて、それですか
11それはここのつづきです
12ここのつづきの外輪山です
13あすこのてつぺんが絶頂です
14向ふの?
15向ふのは御室火口です
16これから外輪山をめぐるのですけれども
17いまはまだなんにも見えませんから
18もすこし明るくなつてからにしませう
19えゝ 太陽が出なくても
20あかるくなつて
21西岩手火山のはうの火口湖やなにか
22見えるやうにさへなればいいんです
23お日さまはあすこらへんで拝みます
24 黒い絶頂の右肩と
25 そのときのまつ赤な太陽
26 わたくしは見てゐる
27 あんまり真赤な幻想の太陽だ
28《いまなん時です
29三時四十分?
   〔…〕

9-23行目と28行目以下は、作者が生徒たちに話しかけている会話文です。
この詩では、全218行のうち、会話文が85行を占めています。

しかも会話の内容は、もっぱら生徒への説明でして、なんら詩的なものではありません。

会話文以外の行が、作者の内言語ということになりますが、
会話文を除いてしまったほうが、詩としてふさわしいようにさえ思えます☆

☆(注) こちらに、会話部分を除いたテキストを作ってみましたので、読んでみてください: 詩ファイル:東岩手火山
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