ゆらぐ蜉蝣文字


第4章 グランド電柱
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4.19.2


しかし、このように2つの声が──神秘な“異世界”の中に誘い込む声(∝A)と、より現実的な意識を代表する声(∝B)とが──作者の中でせめぎあう場面を、私たちは、これまでに何度も見てきたと思います。

とくにはっきりと現れていたのは、詩篇「小岩井農場」の「パート9」においてでした:

. 春と修羅・初版本

44さつきもさうです
45どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は
46 《そんなことでだまされてはいけない
47  ちがつた空間にはいろいろちがつたものがゐる
48  それにだいいちさつきからの考へやうが
49  まるで銅版のやうなのに氣がつかないか》
50雨のなかでひばりが鳴いてゐるのです
51あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野はらも
52その貝殻のやうに白くひかり
53底の平らな巨きなすあしにふむのでせう
54  もう決定した そつちへ行くな
55  これらはみんなただしくない
56  いま疲れてかたちを更へたおまへの信仰から
58  發散して酸えたひかりの澱だ

行頭から書かれた 44-45,50-53 行が、「竹と楢」の《A》に相当する、いわば詩人の声であり、

字下げされた 46-49,54-58 行が、 《B》に相当する現実意識の声です。

そして、「小岩井農場」の場合には、下書きの諸稿ではほとんど《A》の声に従って書かれていたのが、【印刷用原稿】になると、《B》の声が大きくなり、《A》の声──“詩人の声”は、掻き消されて行くのを、見てきたと思います。

そこで、「竹と楢」のAの発言を、いま一度まじめに受け取って考えてみたいと思います:

. 春と修羅・初版本

02煩悶ならば
03雨の降るとき
04竹と楢との林の中がいいのです
   〔…〕
06竹と楢との青い林の中がいいのです

それは、さきほどの清六宛て手紙の引用にもあったように、“苦痛を享楽する”という態度にほかなりません。

竹と楢が絡み合って踏み込むのも困難な林、しかも雨に濡れた藪の中へ、あえて入り込み、その「青い」空間で「煩悶」を享楽しようというのです。

しかし、それがなぜ「詩人」なのでしょうか?

賢治の手紙を、もう少し先まで引用してみたいと思います:

「苦痛を享楽できる人はほんたうの詩人です。もし風や光のなかに自分を忘れ世界がじぶんの庭になり、あるひは惚として銀河系全体をひとりのじぶんだと感ずるときはたのしいことではありませんか。」
(宮澤清六宛て 1925.9.21.,#212)

つまり、賢治の言う“苦痛を享楽する”とは、
“自分を忘れること”、“世界が自分の庭になること”、“銀河系全体が自分だと感じること”──すなわち、自分と“世界”との間の区別を消し去ってしまい、その先に現出する“異世界”に没入することなのです。

それは、私たちの現実的な意識から見れば、あまりにも荒唐無稽、あるいは、ひとりよがりな妄想にすぎないかもしれません。

しかし、そうした世界──“異世界”は、「詩人」としての賢治にとっては、まぎれもなく実在する世界──苦痛や煩悶に実在感がある☆のと同じくらい実在感のある世界なのです。

そして、苦痛や煩悶は、そうした“異世界”への通路となっているのです。。。

☆(注) それでは、苦痛や煩悶は、なぜ通路となりうるのか?‥おそらく、それは、苦痛、恐怖、渇望といった〈もの〉が持つ特別な存在性格と関係があるのだと思います。私たちは、「机の上に消しゴムがある」「部屋の隅に椅子がある」と言うのと同じように、「右手に痛みがある」と言います。“痛み”は消しゴムや椅子と同じように実在すると、私たちは思っています。しかし、“痛み”の実在性は、消しゴムや椅子の実在性とは、異なるものです。私たちは、消しゴムが無いのに、あると思ったり、椅子があるのに、無いと思ったり‥錯誤することがあります。しかし、“痛み”については、錯誤はありえません。左手を怪我したのに、誤って右手が痛いと思うことはあるかもしれません。しかし、その場合でも、“痛み”は、左手ではなく右手に“ある”のです。つまり、“痛み”は、他人からは“見えない”ものであり、客観的には検証不可能であるにもかかわらず、主観的には、外的事物よりも確実な心的実在なのです。


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