ゆらぐ蜉蝣文字


第4章 グランド電柱
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4.17.2


賢治の「年譜」から引用しますと:

「〔1922年〕清六 18歳〔…〕家業への嫌悪、トシ療養、死去などの暗鬱な家庭から脱出、息抜きの了解を得て12月初旬上京〔…〕図書館、研数学館で数学(主に幾何)、科学(主に電気)を勉強する」
(『新校本宮澤賢治全集』第16巻(下)年譜篇,p.235)

「〔1923年〕清六 19歳〔…〕3月、研数学館での勉強の力だめしに蔵前の東京高等工業学校(東京工業大学の前身)電気科を受験、学科試験にはパスしたが、父との進学諒解もまとまっていず、やがて帰宅、家業を見る」
(op.cit.,p.251)

↑上記の年譜には典拠が示されていないのですが、清六氏本人からの聞き書きかもしれません☆

☆(注) 「年譜篇」が発行された2001年の6月(発行日の半年前)に、清六氏は病没しています。

しかし、森荘已池によると:

「大正12年
〔1923年──ギトン〕1月、〔…〕そのころ弟の清六さんは、上京中で本郷竜岡町に止宿、受験勉強につとめていた。入学希望校は蔵前の高等工業学校の電気科だった。」(『宮沢賢治の肖像』,p.246)

とあります。清六氏は、はじめから進学の希望で上京し、猛勉強して受験したのだと思います。そうでなければ、東京工大のような超名門校に合格するとは思えません。

「年譜」に、「息抜き」「力だめし」などと書かれているのは、清六氏の謙遜でしょう。“息抜きをしに行く”と言って、父の許可をとりつけ、“力だめし”と言い訳して受験し、合格した後で、進学させてほしいと父に懇願したが、父は“戻って来い”の一点張りで、やむなく入学を断念した‥ということだったのではないでしょうか。。。

つまり、清六氏は、中学卒業後は、盛岡高等農林卒業後の兄・賢治と同様に、家業の質屋の店番をさせられたのですが、兄弟は二人とも家業が大嫌いで、いつも飛び出す機会をうかがっていました。

清六氏は、上京以前の1922年9月の段階で、電気の方面に進みたい希望を、兄には漏らしていたのではないでしょうか。

当時はちょうど、岩手県にも電気が引かれた時代で、兄・賢治の作品にも「電柱」や「電信柱」がしばしば顔を出しているくらいですから、もっと若い清六氏の眼には、将来性のある輝かしい分野として映っていたことでしょう。

清六氏は、父に入学を許可されなかったために進学は断念しますが、
それでも、兵役を終えたあと、1926年、兄に代って家業を継ぐにあたり、質屋をやめさせて電器店を開業するという大転換を父に受け入れさせています。

これは、兄弟が示し合せて両親を説得(ほとんど強制??)したのではないかと思われます。というのは、この1926年、賢治も農学校を退職して実家を出、《羅須地人協会》を立ち上げているからです。
兄は家業を捨てて独立し、営農と芸術活動に専心する、弟は兄の代りに家業を継ぎ(ただし、父の質屋は廃業させ)、兄を経済的に支える──という兄弟間の内密の取引があったように思われるのです。

恐るべき息子たち‥w

清六氏は、はっきりとは書き残していませんが、
前年1925年に、徴兵入営中の弘前に賢治が訪問して来たさい、兄弟で将来の話をしたことを回想しています:

「太陽が赤く大きく揺れながら西の山に落ちるまで、兄はこれからやらねばならない沢山の企画を聞かせてくれたし、私は私なりにこの時に思っていた将来への考えを述べたのであった。〔…〕当時兄が話し、私が提案した短い言葉が、その時考えたよりも尚深く重大な意味を持つものであることに思いあたったのは最近である。〔…〕

 ともかく私の考えを兄は喜んでくれて、手紙には続いてこの様に書かれている。

  いろいろな暗い思想を太陽の下でみんな汗といっしょに昇華さしたそのあとのあんな楽しさはわたくしもまた知ってゐます。われわれは楽しく正しく進まうではありませんか。〔…〕」
(『兄のトランク』,pp.31-32)
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