ゆらぐ蜉蝣文字
□第4章 グランド電柱
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【34】 林と思想
4.2.1
. 春と修羅・初版本
「グランド電柱」章に入りたいと思います。この章は短い作品がたくさん並んでいて、これまで扱った「オホーツク挽歌」章や「真空溶媒」章とは対照的です。しかし、その中には、「原体剣舞連」や「青い槍の葉」のような重要な作品もあります。季節は、初夏から梅雨時、盛夏を経て9月までです。
最初の作品「林と思想」は、小品ですが、賢治批評の中では、心象スケッチの好例としてしばしば持ち出される作品です。日付は、1922年6月4日(日曜日):
. 春と修羅・初版本
01そら、ね、ごらん
02むかふに霧にぬれてゐる
03蕈(きのこ)のかたちのちいちな林があるだらう
04あすこのとこへ
05わたしのかんがへが
06ずゐぶんはやく流れて行つて
07みんな
08溶け込んでゐるのだよ
09 こヽいらはふきの花でいつぱいだ
注目されているのは 4-8行目です。
眺めている観察者の主観が、眺められている風景のほうへ「流れて行つて」、風景と同化する、というところにあるようです。
そばにいる聞き手に、話しかけるように書かれているので、作者の身体そのものは動いていないことが、明らかです。
つまり、“心”だけが身体を離脱して移動し、風景に同化するのだと読むことになるわけです。
そうすると、最後の行の
09 こヽいらはふきの花でいつぱいだ
は、「流れて行っ」た作者の主観が、「あすこ」の林の中で、林床の風景を見ているのでしょうか?!‥
どうも、そう考えざるを得ないようです。
「ふきの花でいっぱい」な「こヽいら」とは、
観察者と聞き手がいま居るこちらの場所ではなくて、
「むかふ」の林の中だと考えざるを得ないのです。
しかし‥
ギトンは以前から、この説明を聞くたびに、しっくりしない感じがしているのです。
“幽体剥離”のような心霊現象が、じっさいに宮沢賢治に起きたとは、どうしても思えないからですw
とにかく‥宮沢賢治を超能力者のように見る解釈が、ネット上でも、世の中でも多すぎるのですけど‥
それは、SF小説として書いたら面白いでしょうけど‥‥そういう小説を書いてくれるわけでもなく……ただ大マジメに、“賢治教”を信じろみたいに言われても、まったく困惑するばかりです。。。
そういうわけで、
09 こヽいらはふきの花でいつぱいだ
というのは、あくまでも作者の想像上のけしきだとギトンは考えます。
‥いや‥もう少し作者の主観に引き寄せて言えば、
じっさいに賢治は、フキの香りをかいだのだと思います。それは、客観的に言えば幻覚だったかもしれませんが、ともかく匂いがしたのです。
それは、自分の「思想」が、むこうに(おそらく霧の中でぼやっと)見える林の中へ飛んで行ったので、フキの花でいっぱいな林床の匂いがしているのだ──と説明しているわけです。
じっさいに、向こうの林の地面に蕗がたくさんあるかどうかは──季節と場所から言って、ありそうですが──行って見なければ分からない!
↑私たちは、この常識感覚を捨てる必要は無いのです。
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