ゆらぐ蜉蝣文字


第4章 グランド電柱
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4.14.8


   上伊手の剣舞

(1)「うす月にかゞやきいでし踊り子の異形[いぎょう]のすがた見れば泣かゆも。」
(保阪嘉内宛 1917.9.3. #40)

(2) 595 うす月にきらめき踊るをどり子の鳥羽もてかざる異形はかなし  
(歌稿A)

(3)「剣まひの紅(あか)ひたゝれはきらめきてうす月しめる地にひるがへる。

(4) 月更[ふ]けて井手に入りたる剣まひの異形のすがたこゝろみだるゝ。」
(保阪嘉内宛)

(5) 594 うす月にむらがり踊る剣舞(けんばい)の異形きらめきこゝろ乱れぬ  
(歌稿A)

(6)「うす月の天をも仰ぎ太鼓うつ井手の剣まひわれ見てなかゆ。」
(保阪嘉内宛)

(1) は、薄月の光の中に、ひらめくように跳び出してきた踊り子たち──剣舞の開始です。
(2)(3)は、踊っているようす。頭に鳥の羽飾りを付けています。

「あか・ひたたれ」⇒ひたたれ:【古語】〔直垂〕武士の上半身衣。カミシモの下に着る‖ここでは、剣舞の踊り手が着るヒラヒラした服(座衣)を「赤ひたたれ」と呼んでいる:剣舞:写真参照 しかし、←こちらの「ひたたれ」は黒いし、→こちらの原体剣舞の「ひたたれ」も赤くないし、固くてヒラヒラしそうもないです。。。:画像ファイル:原体剣舞 上伊手の剣舞は途絶えているので、どんな衣装か確認できないのですが、赤い「ひたたれ」だったのかもしれません。

(4)の「井手に入りたる」は、作者たち学生一行が、夜遅く伊手村に到着したという意味でしょう。上伊手集落(あるいは、剣舞連の出張先である“伊手さど”、つまり伊手村)にたどり着いてみると、異様な太鼓の音が響いて、村は剣舞の真っただなかであり、作者たちは「こころ乱れ」るほど圧倒された、ということです。
(5)も同じく、「むらがり踊る」剣舞のありさまに、圧倒されています。

(6)は、(1)に対応して、再び「泣かゆ」と、感銘体験をまとめています。「泣か・ゆ」の「ゆ」は、奈良時代の古い受身助動詞で、後代の「る、らる」にあたります。ここは自発の意味で、“おのずと泣けてしまう”。

全体に、踊り子の「異形」が強調されていますが、上伊手の剣舞は、踊り手が面をつけて顔を隠しているのかもしれません(原体の剣舞では、面は腰につけて顔を見せます)。

. 江刺と宮沢賢治によると:

「組み方は、太鼓4人(一つを2人で)、かね1人、笛1人、踊り手は10人ほど(女なし)。5、6年生を中心に15歳ごろまでであったと伝える。」

とあります。少女の踊り手がいないのが、原体との違いでしょうか。

ここの剣舞も、踊り手はみな少年なのですが、異形の面をつけたおどろおどろしい姿に、賢治は圧倒されてしまったのかもしれません。

満月ですが、薄い雲に隠されて、やや暗い闇夜に、激しく跳ねる少年たちの肢体と面は、篝火(かがりび)を反射してぎらぎらと光ります。

この剣舞の背景に、人首丸の伝説があることなどを知ったのは、数日後に人首から大森山のほうへ遡って行ってからだと思います。

この数首には、そうした“いわれ”に先立って、ともかくも遭遇した異様な光景に対する驚きと、ただただ身を浸しきって涙を流しているようすが表れていると思います。

「かなし」という言葉は(2)にだけ現れますが、子供らしい小柄な身体と羽飾り、ふだんなら“かわいい”と言うべきそうした姿が、おどろおどろしい囃子のリズムに翻弄されるように踊り狂う姿は、“悲しい”という感情を催させずにいないのです‥

それは、朝廷軍に抵抗した蝦夷の最期が“悲しい”というよりも──そうした“伝説的説明”以前の、剣舞の実景なのだと思います☆

☆(注) 部落の庭元に伝わる由来書、家伝書は内密にされ、剣舞の由来や意味、踊り手の役柄などについては厳重に口外を禁じられていたと言います。そして、奥義の秘密を守るために、稚児剣舞の伝承は長男に限って許され、他所へ移る可能性のある次・三男には伝えられなかったというほどなのです。ですから、もしも、賢治らが剣舞の舞われている部落で、由来や踊りの意味を尋ねたとしても、村人は固く口を閉ざして語らなかったはずです。少し離れた場所で、人首丸伝説などを聞く機会はあったと思われます。
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