ゆらぐ蜉蝣文字


第4章 グランド電柱
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4.14.4


人首丸は、まだ15〜16歳の美少年だったとされます。

美少年・人首丸に率いられた蝦夷反乱軍は、朝廷軍に追われて伊手川を遡り、原体の“奥淵”に潜んだと言いますが、

そこも維持できなくなると、
藤里・愛宕山の洞窟から、人首集落(のちの人首町)へ、さらに人首川に沿って上流へと追い詰められていきます。。。

最後に、人首丸の主従は、水源地“大森山”の岩窟に篭城します。
4年にわたる抵抗の後、討ち取られた人首丸を供養するために、立てこもった岩屋に観音堂が建てられたと言います↓




大森観音堂跡の岩屋



踊る少年たちの衣装は、村ごとに多少の違いがあります。

↑上のリンクによりますと、原体の場合には、

「八人の少年は、赤い着物を着て白帯を結び、頭巾に鳥の黒い尾羽根を挿して太刀をひるがえす。

 一人の少年は、黒い夜叉の仮面をかぶり、赤い帯を締め、杖と軍配を持って踊る。

 三人の少女は、長衣に脚絆と草鞋の姿で、鉦[かね]を叩き、ささらを鳴らしながら踊る。」

とありますから、
顔を現した7人の少年(面は腰に付けています)と、黒面をかぶった1人の少年(賢治は、これをアテルイに見立てています)、及び3人の少女で踊ったようです☆

☆(注) もっとも、詩「原体剣舞連」でも短歌でも、賢治は、黒面を「青面」に変えています。

「鉦を叩き、ささらを鳴らしながら踊る」という点も、重要です。

「ダーダーダーダー ダースコダーダー」

という擬音は、囃子の太鼓に、鉦の音が加わっているから、こう聞こえるのだと、ギトンは思います★

★(注) そう思うのは、韓国の男寺党(ナムサダン)の公演を見たことがあるからです。男寺党(ナムサダン)は、数人の踊り手が、太鼓と大小の鉦を叩きながら踊りますが、たしかに「ダーダーダーダー‥」という擬音にふさわしいリズムを響かせます。

原体以外の大人の“剣舞”を、Youtube などで聴いてみても、残念ながら「ダーダーダーダー‥」とは聞こえないのです。

   ◇◆◇作者は、いつ見たのか?◆◇◆

この作品の日付は1922年8月31日ですが、宮澤賢治が剣舞を見たことを、資料的に確認できるのは、盛岡高農時代の1917年8-9月です。少なくとも、それ以前に見たことはなかったと思われます。

賢治と同じ農学科第2部、当時3年次の原勝成の書簡によると、1917年8月27日朝、江刺郡岩谷堂(田原村(原体)の北隣り)から地質調査を開始したとあります。
同日付、宮澤賢治の保阪嘉内宛て葉書には:

「今日当地へ来ました。あしたから十日ばかり歩きます。
 これから暫らく毎日お便り致します。〔…〕
   〔…〕
   岩谷堂町ニテ 賢治拝」

とあります。10日間ほどの日程の地質調査だったことが分かります。

農学科第2部[農芸化学]3年次の原勝成、佐々木又治、第1部3年次の高橋秀松らが同行していることから、盛岡高農3年次有志の地質調査行だったと思われます。
指導の教員も加わっていたのではないでしょうか。
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