ゆらぐ蜉蝣文字


第4章 グランド電柱
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4.14.2


   ◇◆◇場所は、どこか?◆◇◆

まず、「原体剣舞」を宮沢賢治が見た場所、つまり原体(はらたい)村の場所ですが:地図:江刺郡

東北本線の水沢駅、あるいは現在の東北新幹線・水沢江刺駅から“伊手川”を4km ほど遡ると小さな盆地になっている場所が旧・原体村☆です。

☆(注) 原体村は1875年以前にあった村名で、同年合併により石原村となり、1889年、石原村と田代村が合併して田原村(1955年まで)となっています。賢治の当時は、田原村新田であったようです。その後、江刺町→江刺市→奥州市江刺区田原(現在)

そこからさらに“伊手川”を遡ると、川は大きく曲がって南に向かい、旧・伊手村に達します。
“江刺カントリークラブ”というゴルフ場のまわりを半周したことになります。

賢治が「剣舞(けんばい)」を見たのは、伊手村の“上伊手”★、および原体村(賢治の当時は田原村新田)です。

★(注) 伊手村は、1889年の町村制施行以前から在ったようです。1955年、岩谷堂町、田原村などと合併して江刺郡江刺町となっています。町村制施行以前に“上伊手”という村があったかどうかは分かりませんが、“上伊手”村落は、“鬼剣舞”の継承史(口承)の中にしばしば登場しますので、伊手村の一村落として存在したようです。

このあたりは、北上山地の“種山ヶ原”や“五輪峠”につらなる丘陵地帯で、
少し北側には“人首川”が東から西へ流れ、遡れば“人首町”、さらに“大森山”・“種山ヶ原”が水源地になります。

“人首(ひとかべ)”というブッソウな地名は、坂上田村麻呂に征服された蝦夷(縄文人?)の少年武将“人首丸”の首が、水源の“大森山”に埋められているという伝説に基いているようです。

人首町を経て“五輪峠”を越えて行く道は、遠野・釜石方面へ通じています。

↑↑以上に挙がった地名はみな、蝦夷伝説の舞台でもありますが、宮沢賢治の詩や童話も書かれているのです…◇

◇(注) 『春と修羅・第1集』の「原体剣舞連」のほか、原体、上伊手の剣舞についてはそれぞれ数本の短歌。『第2集』収録の口語詩「五輪峠」(#16,1924.3.24)、「人首町」(#18,1924.3.25)、「海蝕大地」(#45,1924.4.6)、「種山ヶ原」(#368,1925.7.19)など。童話『種山ヶ原』と『風の又三郎』。

   ◇◆◇原体・上伊手の剣舞について◆◇◆

「剣舞(けんばい)」は、剣を持って踊る伝統的な“ツルギの舞い”の一種ですが、日本では、東北地方の太平洋側に広く分布しています。
とくに、水沢、江刺、北上市周辺では、“鬼剣舞(おにけんばい、おにけんべえ)”と呼ばれ、“鹿(しし)踊り”とともに伝えられてきました。

正式には、旧暦のお盆に怨霊をなぐさめて災厄を防ぐ“念仏踊り”の一種とされますが、

威嚇的な鬼のような面(仏の化身)をつけ、抜き身の太刀をふるって勇壮に踊る姿や、原始の情念を掻き立てるようなリズムから、
この地方に伝わる蝦夷伝説と結びつけられて解釈されることが多いようです。

じっさい、一千年ほど昔に、朝廷勢力によって滅ぼされた蝦夷の人々の怨霊を呼び出し、怨霊に憑かれたように激しく踊る“剣舞”によって、縄文人のエネルギーは、失われることなく今日に伝えられていると言えるでしょう。
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