ゆらぐ蜉蝣文字


第4章 グランド電柱
47ページ/88ページ



【45】 天然誘接




4.13.1


「天然誘接」は、「電車」と同じ8月17日(木曜日)付です:

. 春と修羅・初版本

01 北[齋]のはんのきの下で
02 黄の風車まはるまはる
03いつぽんすぎは天然誘接(よびつぎ)ではありません
04槻(つき)と杉とがいつしよに生えていつしよに育ち
05たうたう幹がくつついて
06險しい天光に立つといふだけです
07鳥も棲んではゐますけれど

 

最初の2行が難解です:

「北齋のハンノキの下で/黄の風車回る‥」

これは、修辞的には2通りの解釈が可能でしょう:

@ 葛飾北斎の浮世絵に描かれている木に似たハンノキ(現実の木)の下で、(現実の)黄色い風車が回っている。

A 葛飾北斎の浮世絵の中で、(描かれた)ハンノキの下で、(描かれた)黄色い風車が回っている。

ところで、風車は中近東(エジプト〜イラン)の発明で、9世紀にはペルシャで揚水灌漑と製粉に使われていた記録があり、ヨーロッパでもまもなく、中国では明代から、風車灌漑が普及しました。

しかし、↑これらは、鉛直回転軸の周りで羽が水平に回転するもので、私たちが持っている風車のイメージとは、かなり違うものです:中国式風車(youtube)

私たちのイメージするような“風車”、つまり、水平回転軸の風車は、
12世紀終り頃に北西ヨーロッパ(オランダ〜北フランス〜東イングランド)で発明されたのです:画像ファイル・風車

風車小屋(Windmill)というと、イコール製粉小屋というイメージがありますが、
じっさいには、もともと、風車の用途は主に揚水や排水であり、従として製粉でした。

ところで、日本には(おもちゃのカザグルマ以外の)風車は、伝わらなかったようなのです‥
西洋式の水平軸風車はもちろん、中国式の鉛直軸風車も、朝鮮半島南部までは伝わりましたが、海を越えなかったのです。

したがって、江戸時代の浮世絵画家が風車を見た可能性は、無いと言ってよいのです。

日本で最初に風車を発明・実用化したのは、1928年ころ大阪府堺市石津の農民で、ため池や耕地への地下水の汲み上げに使われました:石津の風車

1945年以後は、知多半島、渥美半島など他の地域にも風車灌漑が出現しましたが、
これらの地域の特徴は、撥ねツルベによる地下水の汲み上げ潅漑をしていたこと、海陸風に恵まれていることです。

↑↑以上のような風車の歴史から考えますと、『春と修羅』の1922年ころに岩手県内陸部に風車が存在した可能性は、皆無と言ってよいのではないでしょうか?‥

そうすると、「天然誘接」1-2行目の理解としては、上記@は無理で、

A 葛飾北斎の浮世絵の中で、(描かれた)ハンノキの下で、(描かれた)黄色い風車が回っている。

のみが可能‥

ただし、北斎が本物の風車を描いている可能性は無いので、
風車に似た何かが描いてあって、それを賢治が風車に見立てていると考えなければならないでしょう。

.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ