ゆらぐ蜉蝣文字


第4章 グランド電柱
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【43】 高級の霧





4.11.1


「高級の霧」は、6月27日(火曜日)付の最後です:

. 春と修羅・初版本

  高級の霧

01こいつはもう
02あんまり明るい高級(ハイグレード)の霧です
03白樺も芽をふき
04からすむぎも
05農舎の屋根も
06馬もなにもかも
07光りすぎてまぶしくて
08 《よくおわかりのことでせうが
09  日射(ひざし)のなかの青と金
10  落葉松(ラリツクス)は
11  たしかとどまつに似て居ります)
12まぶし過ぎて
13空氣さへすこし痛いくらゐです

「ハイグレードの霧」とは、霧なのでしょうか?‥

私たちの感覚では、野山で霧が出ると、日が翳るので、むしろあたりは暗くなります。霧じたいは白くても、霧のない晴れた昼間に比べれば、どうしても暗くなります。

しかし、ここでは:

07光りすぎてまぶしくて
   〔…〕
12まぶし過ぎて
13空氣さへすこし痛いくらゐです

全体として、夏の強い陽射しが、かんかんに照りつけているように見えます。

ですから、「高級の霧」とは、本物の霧や靄ではなく、強い陽射しが注いでいるために、森や野原の空気がチンダル現象を起こして、ぼおっと霞んだようにみえる光景を、言っているのだと思います。

ところで、“明るすぎる”“まぶしい”「まぶし過ぎて〔…〕痛いくらゐです」──
この作品に限らず、賢治はしばしば、スケッチの中で、明るすぎると言うのですが、それはどんな感情なのでしょうか?

近くの詩篇だけを見ても:

「風景観察官」──「あの林は/あんまり縁青を盛り過ぎた」、つまり、明るすぎる(?)…と言ったあと、
光度の落ちた夕暮れの風景に変わってから、シルエットのように浮かび上がる農夫の姿を嘆賞します。

「岩手山」──輝く光の海の底に、澱りのように沈んだ岩手山が、「きたなく」よどんでいます。

「高原」──おそらく同じ岩手山のけしきですが、飛び跳ねている山の子供たちに出会って、気分が変わったのでしょうか‥
「やつぱり光る山だたぢやい/ホウ」と、歓声を上げます。

「印象」──「ひかりの山」の下で、「展望車」に立つ「紳士」が、病的な青い顔をして、透き通ったように直立しています。

そして、「高級の霧」──
「なにもかも光りすぎてまぶしくて〔…〕まぶし過ぎて/空氣さへすこし痛いくらゐです」

…つまり、おおざっぱに言うと、光る空、光る山、明るすぎる新緑の林、まぶしい屋根の照り返し‥‥などは、
もし、「高原」のように、そこに自己を没入できれば、躍動的なエネルギーの源泉となりますが、

そうでないと、作者は、“過度の明るさ”に輝く周りの世界から疎外されてしまい、憂鬱に沈み込まざるをえないのです‥

そうすると、「高級の霧」の「高級(ハイグレード)」とは、作者にとって必ずしも歓迎できるものではないのです。
むしろ、自分には似合わない、敬遠したくなる、嫉妬、羨望、けむったい、迷惑だ‥‥というような語感が伴っているのではないでしょうか?
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