ゆらぐ蜉蝣文字


第4章 グランド電柱
36ページ/88ページ


4.10.3


そこで、可能性としては、

〔a〕政次郎氏と賢治は、東海道本線の夜行特急(@以外)で行った。「第48葉」と『氷河鼠の毛皮』のボーイによる紅茶サービスは、1等客車か食堂車の状況だが、展望車ではない。

〔b〕 政次郎氏と賢治は、東海道本線を昼間特急@で下り、名古屋(?)に宿泊して、翌朝伊勢へ向かった。展望車に乗車した可能性があるが、夜間ではない。

の2つが考えられますが、年譜によると〔a〕になります。

いずれにせよ、
賢治は、高農の修学旅行か、父子の関西旅行か分かりませんが、東海道本線の展望車(特急@)を見たことがあったのです。

その回想が、このスケッチ「印象」に反映しているのは、まちがえなさそうです。

そうすると、↓次の部分:

. 春と修羅・初版本

03そのとき展望車の藍いろの紳士は
04X型のかけがねのついた帯革をしめ
05すきとほつてまつすぐにたち
06病氣のやうな顔をして
07ひかりの山を見てゐたのだ




は、そのとき、たまたま展望デッキに、謹厳な外見の紳士が立っているのを見た回想なのでしょうか?

そうかもしれません‥

ただ、「ひかりの山を見てゐた」が、いまいち納得できない気がします。
作者自身が展望車に乗り合わせたのでないとすれば、駅で見かけたのだと思われるからです。

そこで、過去の旅行歴はひとまずおいて、1922年のスケッチに戻って再考しますと、

「印象」という題名から、やはり、東海道線で展望車を見た記憶を回想するきっかけが、何かあったはずです‥

そのきっかけとは、小岩井農場の《馬トロ》ではないでしょうか?

展望車(展望デッキ)に直立する「紳士」とは、《馬トロ》の馭手ではないかと思うのです:画像ファイル:小岩井農場の《馬トロ》

現在の観光用《馬トロ》の馭手は座っていますが、当時の業務用《馬トロ》では、馭手はトロッコの上に立って手綱を操っていたそうです(『賢治歩行詩考』,p.143)

「小岩井農場・パート9」にも:

84馬車が行く 馬はぬれて黒い
85ひとはくるまに立って行く

と、《馬トロ》に立っている馭手が描かれていました。

賢治は、1922年6月──長詩「小岩井農場」のための“歩行詩作”から1ヶ月後──小岩井農場を訪れた時に、走っている《馬トロ》の馭手が、すくっと真っ直ぐに立って、遠景に光る岩手山のほうを見ている印象から、以前に東海道線で見た展望車を思い出したのではないでしょうか?

.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ