ゆらぐ蜉蝣文字
□第4章 グランド電柱
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4.10.3
そこで、可能性としては、
〔a〕政次郎氏と賢治は、東海道本線の夜行特急(@以外)で行った。「第48葉」と『氷河鼠の毛皮』のボーイによる紅茶サービスは、1等客車か食堂車の状況だが、展望車ではない。
〔b〕 政次郎氏と賢治は、東海道本線を昼間特急@で下り、名古屋(?)に宿泊して、翌朝伊勢へ向かった。展望車に乗車した可能性があるが、夜間ではない。
の2つが考えられますが、年譜によると〔a〕になります。
いずれにせよ、
賢治は、高農の修学旅行か、父子の関西旅行か分かりませんが、東海道本線の展望車(特急@)を見たことがあったのです。
その回想が、このスケッチ「印象」に反映しているのは、まちがえなさそうです。
そうすると、↓次の部分:
. 春と修羅・初版本
03そのとき展望車の藍いろの紳士は
04X型のかけがねのついた帯革をしめ
05すきとほつてまつすぐにたち
06病氣のやうな顔をして
07ひかりの山を見てゐたのだ
は、そのとき、たまたま展望デッキに、謹厳な外見の紳士が立っているのを見た回想なのでしょうか?
そうかもしれません‥
ただ、「ひかりの山を見てゐた」が、いまいち納得できない気がします。
作者自身が展望車に乗り合わせたのでないとすれば、駅で見かけたのだと思われるからです。
そこで、過去の旅行歴はひとまずおいて、1922年のスケッチに戻って再考しますと、
「印象」という題名から、やはり、東海道線で展望車を見た記憶を回想するきっかけが、何かあったはずです‥
そのきっかけとは、小岩井農場の《馬トロ》ではないでしょうか?
展望車(展望デッキ)に直立する「紳士」とは、《馬トロ》の馭手ではないかと思うのです:画像ファイル:小岩井農場の《馬トロ》
現在の観光用《馬トロ》の馭手は座っていますが、当時の業務用《馬トロ》では、馭手はトロッコの上に立って手綱を操っていたそうです(『賢治歩行詩考』,p.143)
「小岩井農場・パート9」にも:
84馬車が行く 馬はぬれて黒い
85ひとはくるまに立って行く
と、《馬トロ》に立っている馭手が描かれていました。
賢治は、1922年6月──長詩「小岩井農場」のための“歩行詩作”から1ヶ月後──小岩井農場を訪れた時に、走っている《馬トロ》の馭手が、すくっと真っ直ぐに立って、遠景に光る岩手山のほうを見ている印象から、以前に東海道線で見た展望車を思い出したのではないでしょうか?
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