ゆらぐ蜉蝣文字


第4章 グランド電柱
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【42】 印 象





4.10.1


「印象」は、6月27日(火曜日)付の3作目です:

. 春と修羅・初版本

  印 象

01ラリツクスの青いのは
02木の新鮮と神經の性質と兩方からくる

03そのとき展望車の藍いろの紳士は
04X型のかけがねのついた帯革をしめ
05すきとほつてまつすぐにたち
06病氣のやうな顔をして
07ひかりの山を見てゐたのだ

宮澤賢治の没後に出版された本はみな、この詩の2行目と3行目を続けて印刷していますが、賢治の《初版本》では、ここに改頁があります。この改頁には意味があると思うので、↑↑ 2-3行目の間を1行空けてみました。

このほうが、内容がよく分かると思います。
たしかに、ざっと通読しただけでも、3行目の「そのとき…」は唐突で衝撃的です‥

まず、「展望車」について考えておかねばなりません:画像ファイル:展望車

宮沢賢治の時代にあった「展望車」とは、一等車に“展望デッキ”のついたもので、列車の最後尾に連結されました。

つまり、現在の展望車のように最前部で進行方向の景色を見るものではなく、最後尾で、過ぎてゆく景色を見るデッキだったのです。VIPが、沿線の観衆に手を振るのに便利なので、アメリカでは現在でも、この型の展望車を、選挙遊説に使う政治家がいます(例えば、オバマ大統領)

しかし、この1922年6月までに日本で製造された、あるいは輸入された展望車は、ごくわずかでして、じっさいに使用されたのは:

@オテン9020形(木造):1912年から、新橋〜下関間特急1・2列車(のちの特急「富士」)に使用されました。

A10号御料車(木造):1922年4月の英国皇太子アルバート公来日のために製造され、国賓用に使われました。

──この2台くらいなのです。

そして、@Aともに、東北地方へ来た形跡はありません。

ですから、賢治が、この1922年に、じっさいに展望車が走っているのを見て、このスケッチを書いた可能性は、まず無いと思います。

もっとも、賢治は、1916年3月の盛岡高等農林の修学旅行で東海道本線に乗車していますから、その時に、たまたま駅などで、@の特急を見かけているかもしれません。しかし、見ても一瞬でしょうし、何年もたってから詩にするほどの印象を得たと考えるのは、ちょっと無理かもしれません‥

しかし、もう一つの可能性があります:
賢治は、滞京中の1921年4月、父・政次郎氏とともに、東京から関西方面へ旅行しています。この時は、政次郎氏がいっしょですから、特急の1等車に乗車したかもしれません。

そういえば、『冬のスケッチ』に、↓こんな断片があるのです:

「ボーイ紅茶のグラスを集め
『まっくらでござんすな、
 おばけが出さう。』と云ひしなり。」
(48葉)

『冬のスケッチ』全体の執筆年代は、1921年12月〜1923年3月と推定されていますが(『新校本全集』第1巻「校異篇」,p.148)、
この第48葉は、来歴の違う下書きメモの断片ではないかという意見も有力です(op.cit.,p.176; 佐藤勝治『“冬のスケッチ”研究』pp.94,171-172)。
しかし、それにしても、『冬のスケッチ』断片といっしょに穴をあけて綴じられていたことからすると、執筆年代は大きく違わないと推定できます。

レストランか喫茶店(←どちらも当時は非常に珍しかったはずです)の食器の後片付けにしては、「おばけが出さう」なほど暗いという状況が異様です。

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