ゆらぐ蜉蝣文字


第4章 グランド電柱
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4.1.2


作中では、

「〔…〕まだはたち前なのに、
 三十にも見えるあの老けやう〔…〕」

となっていますが、逆に、見た目は30歳近くて、それが実年齢なのに、軽妙なしゃべり方や“中身”はまだ子どものよう‥と考えてもよいと思います。

要は、
老成した、あるいは紳士然とした服装・髪型・外見と、しなやかな少年のような“中身”とのギャップが重要なのだと思います。
そうした、どこかちぐはぐな人物の惹きつけるような魅力が、この作品のテーマではないかと思います。

ところで、『新校本全集』の「校異」によりますと、原稿の一部に赤インクで囲い線などがしてあります。これは、文語詩原稿などに付された指示記号の例に倣いますと、詩行の一部を採用して順序を入れ替える改作と思われます。ただし、指示は中途で終っています(まだ入れ替えが中途で、省略する詩行も抹消されていません)。おそらく、晩年に文語詩への改作を試みたのではないかと思います。

そこで、改稿後はこうなったと思われる形を想像してみますと、次のようになります:

01(もうすっかり夕方ですね。)
02けむりはビール瓶のかけらなのに、
03そらは苹果酒(サイダー)でいっぱいだ。
04(ぢゃ、さよなら。)
05砂利は北上山地製、
06(あ、僕、車の中ヘマント忘れた。
07 すっかりはなしこんでゐて。)

18Larix, Larix, Larix,
19青い短い針を噴き、
20夕陽はいまは空いっぱいのビール、

08(あれは有名な社会主義者だよ。
09 何回か東京で引っぱられた。)
10髪はきれいに分け、
11まだはたち前なのに、
12三十にも見えるあの老けやうとネクタイの鼠縞。
 
21かくこうは あっちでもこっちでも、
22ぼろぼろになり 紐になって啼いてゐる。

第3連を削って、第4連の一部を前へ移しただけですが、全体の印象はずいぶん違ったものになってしまいました。

青年の軽妙洒脱な喋りが削られて、「何回か東京で引っぱられた」「あの老けやう」を含む8-12行目が、「かくこうは〔…〕ぼろぼろになり〔…〕啼いてゐる。」という最後の2行の叙景と直接繋がった結果、「有名な社会主義者」の青年の生活に疲れた様子が、行間に強調される結果となっています。

しかし、それはあくまで、晩年の“改作”による詩想の変更★と考えたい。

★(注) 1926年からの《羅須地人協会》による農村文化運動とその挫折、1927-28年における作者周辺の労農社会主義者たちの活動と、弾圧連座による壊滅的影響を経験したあとの作者の詩想・感覚は、1922-24年の『春と修羅』時代と同列に語ることはできません。なお、宮澤賢治と労農党稗和支部との関係については:伊藤光弥『イーハトーヴの植物学』,洋々社,2001,pp.13-23,101-120.参照

いまは、“改作”前の形で、『春と修羅』時代の溌剌とした作品として読んで行きたいと思います。

. 厨川停車場

01(もうすっかり夕方ですね。)
02けむりはビール瓶のかけらなのに、
03そらは苹果酒(サイダー)でいっぱいだ。
04(ぢゃ、さよなら。)
05砂利は北上山地製、

 


夕方の駅で、プラットホームに汽車が入ってきた状況です。降りて来た乗客が、

「(もうすっかり夕方ですね。)」

と話し合っています。

「けむりはビール瓶のかけら」とありますが、この「けむり」は、蒸気機関車から出ている煙か湯気と思っていいでしょう。夕方なので陽の光が黄味を帯びているのか、「けむり」がビール瓶のような褐色に見えます。

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