ゆらぐ蜉蝣文字


第4章 グランド電柱
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4.5.7


「青い槍の葉」では:

12雲はくるくる日は銀の盤
13エレキづくりのかはやなぎ
14風が通ればさえ冴(ざ)え鳴らし

とあって、河楊の“ブリキの葉”が、風に鳴らされながら、チラチラひらめくありさまです。
ただし、童話と違って、鳥を吸い込んで捕ったりはしません‥w

「向うの楊の木から、まるでまるで百疋ばかりの百舌(もず)が、一ぺんに飛び立って、一かたまりになって北の方へかけて行くのです。〔…〕俄かに向ふの五本目の大きな楊の上まで行くと、本当に磁石に吸い込まれたやうに、一ぺんにその中に落ち込みました。」

木に吸い込まれたのかどうか、たしかめようとして、慶次郎が石を投げると★、石は届かなかったのに、モズは一斉に飛び立ちました‥ モズ⇒:画像ファイル・モズ

★(注) モデルの藤原健次郎は、中学の野球部に所属していましたから、遠投力には自信があったと思われます。

「『生きていたねえ、だまってみんな僕たちのこと見てたんだよ。』慶次郎はがっかりしたやうでした。
『さうだよ。石が届かないうちに、みんな飛んだもねえ。』私も答へながらたいへん寂しい気がして向ふの河原に向って又水を渉りはじめました。」

樹の中から、鳥たちが、じっとこちらを見ていることが分かると、二人はにわかに、気おされたように元気をなくして、なにか恐ろしいものを感じ始めるのです。

「私たちは河原にのぼって、砥石になるやうな柔らかな白い円い石を見ました。〔…〕慶次郎はそれを両手で起して、川へバチャンと投げました。石はすぐ沈んで水の底へ行き、ことにまっ白に少し青白く見えました。私はそれが又何とも云へず悲しいやうに思ったのです。」

この「何とも云へず悲しい」は、賢治童話によく出てきますが、いまいち意味がよく分かりません。

しかし、「悲しい」を“怖い”“恐ろしい”と言い換えれば、ギトンにもよく分かります。周りに人のいない寂しい場所で日が翳ったとき、山奥で道に迷ったときなど、また、何の理由も無いのに、たとえようもなく恐ろしい気持ちになることがあります。ひとりでなくても、子供どうしで歩いていたり、犬を連れただけのときにも、そうなることがあります。

おそらく、宮沢賢治の場合には、自分の気持ちが“さびしい”“おそろしい”よりも前に、山や野原や樹木自体が悲しんでいるように思え、その凄絶な“悲しさ”が伝わってくるのだと思います。

岩手山の火口湖での:

「石投げなば 雨ふると云ふ うみの面は あまりに青く かなしかりけり」
(歌稿A,77番)

も、これと同じ・自然物が発散して来る“悲しさ”だと思います。

「その時でした。俄かにそらがやかましくなり、見上げましたら一むれの百舌が私たちの頭の上を過ぎてゐました。百舌は〔…〕楊を二本越えて、向うの三本目の楊を通るとき、又何かに引っぱられたやうに、いきなりその中に入ってしまいました。

 〔…〕慶次郎は本気に石を投げたのでしたが、百舌は一ぺんにとびあがりました。向ふの低い楊の木からも、やかましく鳴いてさっきの鳥がとび立ちました。私はほんたうにさびしくなってもう帰らうと思ひました。」

  

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