ゆらぐ蜉蝣文字


第4章 グランド電柱
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4.5.6


ところで、「青い槍の葉」の13行目に:

13エレキづくりのかはやなぎ

「エレキ造りの河楊」とありましたが、
「エレキの楊」は、童話『鳥をとるやなぎ』にも登場します:鳥をとるやなぎ

「『煙山(けむやま)にエレッキのやなぎの木があるよ。』
 藤原慶次郎がだしぬけに私に云ひました。私たちがみんな教室に入って、机に座り、先生はまだ教員室に寄ってゐる間でした。尋常四年の二学期のはじめ頃だったと思ひます。」

『鳥をとるやなぎ』は、童話『谷』と同じ頃、1922年中に書かれたと推定されます☆

☆(注) 用紙は、童話『谷』と同じ《10/20原稿用紙》で、筆跡は『谷』とよく似ています。

「『今朝権兵衛茶屋のとこで、馬をひいた人がそう云ってゐたよ。煙山の野原に鳥を吸い込む楊の木があるって。エレキらしいって云ったよ。』
『行かうぢゃないか。見に行かうぢゃないか。どんなだらう。きっと古い木だね。』私は冬によくやる木片を焼いて髪毛(かみのけ)に擦(こす)るとごみを吸ひ取ることを考へながら云ひました。」

飛んでいる鳥を、静電気で吸い寄せて、呑み込んでしまう楊の樹を想像しているようです。

こうして、「私」と「藤原慶次郎」は、放課後、慶次郎の家の近くの河原へ、“鳥を捕るヤナギの木”を探しに出かけます。

この「藤原慶次郎」のモデルは、盛岡中学校の寄宿舎で賢治と同室だった親友・藤原健次郎と思われます。健次郎は、賢治が中学2年、健次郎が3年の時に病死していますが、

矢巾町(当時:不動村)に家があり、賢治とともに、南昌山方面へ水晶探索などに出かけていたようです。

この『鳥をとるやなぎ』で、二人が出かけている河原は、南昌山神社付近と思われます:地図:南昌山、毒ヶ森

「けむりのような草の穂をふんで、一生けん命急いだのです。」

「向ふに毒ヶ森から出て来る小さな川の白い石原が見えて来ました。その川は、ふだんは水も大へんに少くて、大低の処なら着物を脱がなくても渉れる位だったのですが、一ぺん水が出ると、まるで川幅が二十間位にもなって恐ろしく濁り、ごうごう流れるのでした。ですから川原は割合に広く、まっ白な砂利でできてゐて、処々にはひめははこぐさやすぎなやねむなどが生えてゐたのでしたが、少し上流の[方]には、川に添って大きな楊の木が、何本も何本もならんで立ってゐたのです。」

「ヒメハハコグサ」は調べても見当たらないのですが、ハハコグサ、ヒメチチコグサは、どちらもキク科の雑草です。茎も葉も一面に白い細かい毛でおおわれているので、白く見えます:画像ファイル:ハハコグサ、ヒメチチコグサ、ネムノキ

ヒメチチコグサは、本州北部・北海道にだけ分布していて、花はハハコグサより目立ちませんが、茎葉の白さは、ハハコグサよりまさっています。湿った畑や荒地に生えます。
花期は、ハハコグサが4〜6月、ヒメチチコグサが8〜9月です。

おそらく、「ヒメハハコグサ」は、ヒメチチコグサのことでしょう。

茎葉が縮れて真っ白なヒメチチコグサと、トクサのようなスギナだけが生えている河原は、ちょっとシュール(非現実的)な雰囲気ですね。さびしい荒地の感じがします。

ネムノキの花も咲いていれば、さらにシュールですが(ネムノキの花期は、梅雨明け〜盛夏)、この童話の季節は、ちょっと分かりません。

「野原には風がなかったのですが空には吹いてゐたと見えてぎらぎら光る灰いろの雲が、所々鼠いろの縞になってどんどん北の方へ流れてゐました。」

「『きっと鳥はくちばしを引かれるんだね。』
『そうさ。くちばしならきっと磁石にかかるよ。』
『楊の木に磁石があるのだらうか。』
『磁石だ。』

 風がどうっとやって来ました。するといままで青かった楊の木が、俄にさっと灰いろになり、その葉はみんなブリキでできてゐるやうに変ってしまひました。そしてちらちらちらちらゆれたのです。

 私たちは思はず一緒に叫んだのでした。
『あゝ磁石だ。やっぱり磁石だ。』」

二人で歩きながら話しているうちに、楊の木は磁石で鳥を吸い寄せるという想像に変りました。

風が出たとたんに、いままで穏やかに緑の葉を茂らせていた楊の木は、灰色に変貌し、「葉はみんなブリキでできてゐるやうに変って」、チラチラ光って揺れます。

葉の描写からも、この「楊の木」は、細葉のシダレヤナギではなく、上向きの枝に広い葉をつけたポプラの仲間のヤナギであることが分かります。

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