ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.6.14


. 「小岩井農場」【清書稿】

「〔…〕この五六日
 ずゐぶん私は物騒に見えたらう。
 人生経営ももうだめだと云ひ
 ピストルはもってゐる
 砒素やひのきのことを云ふ
 茶碗は床へ投げつける
 そんなやつの家へどうして寄りつかれよう。」

「砒素やひのきのことを云ふ」は、清書稿の最初の形では「砒素とひのきの詩をつくる」でした★。賢治は堀籠氏に、自作詩を見せていたことが分かります。

「人生経営ももうだめだと云ひ」の行は、推敲過程で削除されています。

★(注) 砒素の出てくる‘詩’は、現存する1922年までの作品には見当たりませんが、『冬のスケッチ』の破棄された部分にあったことが考えられます。砒素の出てくる短歌ならば、『歌稿B』「大正8年8月より」の項に、「うちゆらぐ/波の砒素鏡つくりつゝ/くろけむりはきて船や行くらん。」(#753)があります。「ひのき」の出てくる詩は、作品「春と修羅」でしょうか。賢治詩の「ひのき」は、服喪の象徴であるイトスギに通じるモチーフなので、砒素と並んで述べられているのです。

「あの人が来なかったのは当然すぎる。
 何もかもみんなぶち壊し
 何もかもみんなとりとめのないおれはあはれだ。」

↑このへんの過剰な自己嫌悪は、前年までの・保阪に宛てた手紙に、よく似ていないでしょうか?:

「私は実はならずものごろつきさぎし、ねぢけもの、うそつき、かたりの隊長、ごまのはひの兄弟分、前科無数犯弱むしのいくぢなし、ずるものわるもの偽善会々長 です。〔…〕監獄ももう遠くありません。いや私は今なぜ令状が来ないかを考へるのです。度々考へるのです。その来ないわけは心の罪は法律が問はず行の罪もないとは言へない。それでも気がつかないのです。いや監獄が狭すぎるのでせう。
〔…〕わが友の保阪嘉内よ、保阪嘉内よ。わが全行為を均しく肯定せよ。」
(1919.7.[書簡番号152a])

「私が友保阪嘉内、私が友保阪嘉内、我を棄てるな。」
(1920.12.上旬[書簡番号178])

つまり、気が狂ったような自己否定を、これでもか、これでもか‥と並べて見せた上で、そういう自分を棄てないでくれ‥味方になってくれ‥と、際限のない甘え方をするのです。

賢治と知り合ったばかりの堀籠氏には、迷惑はなはだしいことですが(笑)、

賢治としては、そういう“無限抱擁”を求めることのできる相手だった保阪が、いまはいない以上、代わりの誰かを求めて、──相手が、保阪に換り得るような同性愛者ではないにもかかわらず──気も狂わんばかりなのだと、思います。

. 「小岩井農場」【清書稿】

「向ふの黒い松山が狼(オイノ)森だ。
 実に新鮮で肥満(プラムプ)だ。
 たしかにさうだ。地図で見ると
 もっと高いやうに思はれるけれども
 たゞあれだけのことなのだ。
 あれの右肩を通ると下り坂だ。
 姥屋敷の小学校が見えるだらう。
 もう柳沢へ抜けるのもいやになった。
 柳沢へ抜けて晩の九時の汽車に乗る。」

《狼ノ森(おいのもり)》は、小岩井農場の北端にある4つの「森」のうち、最初に見えてくるものです:写真 (ト)

「森」とは、“もりおか”や“もり蕎麦”の“もり”と同じで、地形の盛り上がった場所、つまり丘や山のことです。東北地方には、“〜森”という名前の山が多いですが、じつは“山”という意味なのです。

「プランプ」は英語:plump:〈人・体の一部など〉ふくよかな,肉付きのよい; 丸々と太った( fat より感じのよい言葉として好まれる)。《狼ノ森》の・なだらかな形を言っています。

4つの「森」の向こう(北側)には、「姥屋敷」集落があります。
道は、《狼ノ森》の右肩を乗り越えて、「姥屋敷」集落を左手に見ながら、鞍掛山の麓を北東へ向かい、春子谷地を経て、
「柳沢」で、岩手山登山道に出会います。
そこで、登山道を、山と逆の方向に下りて行けば、東北本線(当時)滝沢駅に出るわけです:小岩井農場略図(2) 地図:春子谷地、柳沢

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