ゆらぐ蜉蝣文字
□第3章 小岩井農場
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3.5.33
「『私は、いくらでも分け与えよう、人間たちの中の賢き者どもが、ついに彼らの愚かさをなつかしがり、貧しき者どもが、ついに彼らの富に雀躍するまで。そのために、私は、下界へ下りて行かねばならぬ。ちょうど汝が、夕べに海の彼方へと沈み、地下界に光をもたらすのと同じように、豊饒の星辰よ!
〔…〕
あふれんとする杯を祝福せよ、そこから金色の水が流れ出で、地の果てばてに、汝の至福の輝きを及ぼすように!
見よ!この杯は、干されんと欲している、ツァラトゥストラは、再び人間にならんと欲している。』
──こうして、ツァラトゥストラの下山行は開始された。」
さて、横道にそれすぎましたが‥
賢治の散文『太陽マヂック』から、「小岩井農場」に関係する部分を引用してみますと:散文『太陽マヂック』
「太陽マヂックのうたはもう青ぞらいっぱい、ひっきりなしにごうごうごうごう鳴ってゐます。
〔楽譜…省略〕
わたしたちは黄いろの実習服を着て、くづれかかった煉瓦の肥溜のとこへあつまりました。
冬中いつも唇が青ざめて、がたがたふるえてゐた阿部時夫などが、今日はまるでいきいきした顔いろになってにかにかにかにか笑ってゐます。ほんたうに阿部時夫なら、冬の間からだが悪かったのではなくて、シャツを一枚しかもってゐなかったのです。それにせいが高いので、教室でもいちばん火に遠いこわれた戸のすきまから風のひうひう入って来る北東の隅だったのです。
けれども今日は、こんなにそらがまっ青で、見てゐるとまるでわくわくするやう、かれくさも桑ばやしの黄いろの脚もまばゆいくらゐです。おまけに堆肥小屋の裏の二きれの雲は立派に光ってゐますし、それにちかくの空ではひばりがまるで砂糖水のやうにふるえて、すきとほった空気いっぱいやってゐるのです。もう誰だって胸中からもくもく湧いてくるうれしさに笑い出さないでゐられるでしょうか。さうでなければ無理に口を横に大きくしたり、わざと額をしかめてたりしてそれをごまかしてゐるのです。
(コロナは六十三万二百
〔楽譜…省略〕
ああきれいだ、まるでまっ赤な花火のやうだよ。)
それはリシウムの紅焔でしょう。ほんとうに光炎菩薩太陽マヂックの歌はそらにも地面にもちからいっぱい、日光の小さな小さな菫や橙や赤の波といっしょに一生けん命に鳴っています。〔…〕」
この1922年4月に、稗貫農学校で生徒たちと体験した下肥え運びの実習に取材した作品と考えられます。
「コロナは八十三萬四百」
「コロナは六十三万二百」
などとあるのは、太陽から発している光芒の数を想像して書いたものでしょう。
散文のほうでは、「阿部時夫」という一人の生徒のことに集中して書かれています。
この生徒は背が高くて、体格の釣り合う相手がいなかったので、教師の賢治が、天秤棒の相棒を組んだのです。
回想記などを見ると、賢治は、当時の日本人の平均よりは背も体格も大きくて、がっちりしていたそうです☆。
☆(注) 例えば、大八木敦彦『病床の賢治──看護婦の語る宮澤賢治』,2009,舷燈社,p.20.
しかし、阿部は、たまたま賢治と相棒を組んだというだけではありませんでした:
「阿部時夫などが、今日はまるでいきいきした顔いろになってにかにかにかにか笑ってゐます。〔…〕けれども今日は、こんなにそらがまっ青で、見てゐるとまるでわくわくするやう、〔…〕もう誰だって胸中からもくもく湧いてくるうれしさに笑い出さないでゐられるでしょうか。」
と書いているように、
浮き立つような春の嬉しさを顔に出さずにはいられない・その生徒の素朴な性格は、作者の深く共感するところとなっていたからです。
…そう、あの童話『虔十公園林』の「虔十」にはモデルがいたことを、私たちは知るのです!
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