ゆらぐ蜉蝣文字
□第3章 小岩井農場
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3.5.32
つづいて散文作品『太陽マヂック』☆の異稿というべき断片が挿入されます(118-128行)。これも【下書稿】には無く、推敲の過程での加入です。
☆(注) 『太陽マヂック』は、『春と修羅』《印刷用原稿》、童話『車』、童話『さいかち淵』と同じ用紙に書かれており、1923-24年頃書かれたと推定できます。同じ用紙の上で大幅に推敲されており、推敲後の題名は『イーハトーボ農学校の春』です(『新校本全集』第10巻・本文篇pp.40f,校異篇pp.29f)。したがって、「小岩井農場・パート3」⇒『太陽マヂック』⇒『イーハトーボ農学校の春』の順に成立したことになります。ただし、「小岩井農場」の【下書稿】には、この部分が無いので、最初に書かれて挿入されたのは、1922年5月よりも、かなり後になってからです。しかし、「小岩井農場」の↓下の韻文形が最初に書かれ、散文『太陽マヂック』はそれを改作して成立したのは、まちがえありません。というのは、↓下の118,122,128行目の「(コロナは‥」は、いずれも、《印刷用原稿》に最初に書き写された時には、「(Carbon di-oxide to sugar)」だったからです。
. 春と修羅・初版本
118 (コロナは八十三萬二百……)
119あの四月の實習のはじめの日
120液肥をはこぶいちにちいつぱい
121光炎菩薩太陽マヂツクの歌が鳴つた
122 (コロナは八十三萬四百……)
123ああ陽光のマヂツクよ
124ひとつのせきをこえるとき
125ひとりがかつぎ棒をわたせば
126それは太陽のマヂツクにより
127磁石のやうにもひとりの手に吸ひついた
128 (コロナは七十七萬五千……)
「液肥(えきひ)」は、“しもごえ”、つまり人間の糞尿を溜め置いて醗酵させたものです。
124行目の「せき」は「堰」、つまり流れを堰き止めた小さなダムです。堰の上を歩いて、川の向こう側へ渡ることができます。
「かつぎ棒」は、“てんびん棒”(↓下で説明します)のこと。
121行目の「光炎菩薩」ですが、これは太陽のことだと思います。前年の1921年10月に、
にいちえ著 登張信一郎訳註及論評
『如是経 一名 光炎菩薩大獅子吼経 序品 つあらとうすとら』、星文館書店。
という題名の本が出版されています。
内容は、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』の抄訳と解説です。
浄土真宗では、「光炎王」というと、阿弥陀如来の別名のひとつだそうです。↑上の『如是経‥』にも、ツァラトゥストラの生まれ変りが親鸞だとか‥わけのわからないことが書いてあるそうですw
ともかく、宮澤賢治なら「光炎菩薩」という題名を見て興味をそそられたことは、間違えないでしょう。
そこで、『ツァラトゥストラ』ですが、
たしか、あの本のいちばん始めは、山の洞穴に籠っていたツァラトゥストラが、ある朝昇った太陽に向かって何やら宣言してから山を下りて来る‥‥という始まりじゃなかったかと思うんですね‥
あいにく、いまギトンの手元には訳本が無いので、ネットの Gutenberg で原著を見てみましたら‥うんうん、やはりまちがいない‥
とはいえ、↓ドイツ語をそのまま出しても、皆さんにはわからないので‥(汗)
しょうがない‥ギトンのへたくそな訳文でお眼にかけることにしましょう‥ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』の冒頭部分です:
「ツァラトゥストラは、30歳の時に故郷と故郷の湖を離れて、山に入った。ここで彼は自らの精神と孤独を楽しみ、10年間これに飽きることがなかった。しかし、ついに彼の心は変化した──ある朝、彼は、朝焼けとともに起き上がり、太陽の前に出て、こう語りかけた:
『汝、偉大なる星辰よ!もし汝の照らす者どもがいなかったならば、何が汝の幸福だというのか!
汝は10年にわたって、この路を通って私の洞穴にやってきた。もし私と私の鷲と私の蛇がいなかったならば、汝は、汝の光とこの通路に飽き飽きしてしまったことだろう。
〔…〕
見よ!私は、私の叡智にあきあきしてしまった、蜜を集めすぎた蜂のようなものだ。私は、私に向かって差し出される多くの手を必要としているのだ。」
『如是経 一名 光炎菩薩大獅子吼経』,1921年 より
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